大判の絵本を手にとって眺める。中身は昔見たことがあるような冒険物語だ。そういえば夢中で読んでたっけなあ、などと思っていると、少し離れたところで自分を呼ぶ声がした。
「ロイド、こんなところにいたのね。」
エリィの声に、ロイドは立ち読みの本から顔を上げる。
「おまたせ、ロイド。」
ぱたぱたと駆け寄ってきて、エリィがにっこりと笑った。
「エリィ。早かったんだな。」
「ええ、頼んでいた品物を受け取るだけだったから。」
言いながら、手に持った包みを小さく上げる。中には箱が入っているらしく、小奇麗な袋は少々角ばっていた。
「中身は何なんだ?」
聞くと、エリィはふふふ、と悪戯な笑みを浮かべた。
「それは秘密。」
無言のうちに、残念が顔に出たのだろうか。エリィはこちらを見あげてくすりと笑う。
「・・・なんてね。キーアちゃんのブラシと髪留めよ。ほら、キーアちゃん、自分用の持ってなかったでしょう?」
今までいつも私かティオちゃんのを貸してたし、と続く。理由は確かに、そういえば、の範囲内だった。
「ああ、なるほど。でも、その辺に売ってあるのになんでわざわざ?」
「あのふわふわの髪はちゃんと手入れしなきゃダメだもの。ちょっといいブラシ使うだけで随分違うのよ。」
わかってないわねえ、の苦笑に肩をすくめる。
「その発想はエリィならではだな。」
少なくとも自分には、ふわふわの髪が気持ちよいと思う気持ちがあっても、ブラシにこだわるという発想はない。
「そうでもないわよ。・・・でもまあ、男の子はそんなものかもしれないわね。」
そう言って微笑むエリィは、どこまでも女の子だった。少し遠くて、でもそんな所が好ましい。
「ロイドは何見てたの?それ、絵本よね。」
そんなこちらの都合に全く感づく気配もなく、エリィはこちらが持っている本をひょいと覗き込んだ。
「うん、キーアにどうかなって。」
「なるほど。キーアちゃん読書家だものね。」
「そうなんだよな。でも、いざ選ぼうとしたら何を選べばいいのかさっぱりでさ。」
一緒になって手に持った絵本に目を落とす。内容は覚えのある冒険物語。しかし、果たしてキーアに喜んでもらえるかどうか・・・それはやっぱりわからない。
「ロイドだって本は読んでるじゃない。」
「それとこれとは違うんじゃないか?」
言うと、エリィは、そうかしら、と首をかしげる。
「あんまり違わないと思うけれど。・・・多分ね、キーアちゃんは貴方が好きな本ならきっと好きよ。」
「どうだろう。俺とキーアじゃ好みも違うだろうし。」
「そう言う問題じゃないのだけど・・・うーん。」
エリィは少し考えるような面持ちで宙を見て、やがてこちらに向き直った。
「そうねえ、・・・それ、どんな話?」
「え?・・・冒険物、かな。昔読んでた奴だけど。」
「へえ、そうなの。・・・ちょっと見せてくれるかしら?」
差し出された手に絵本を渡す。絵本は細い手の上で、ぱらぱらとめくられていった。
「遠い世界のそのまた向こうの端っこに、空飛ぶ島がありました・・・」
独り言を呟くように、エリィが文を読む。
そっと視線を本に落とした姿はどこか色っぽかった。言葉を口の中で転がすような声だって耳にも心にも優しくて、どきりと胸が鳴る。
「空飛ぶ島には、大きな遺跡があって、その中には大事な宝物がありました。島の人たちは、宝物を大事に守って暮らしていました。
しかしある時、そこに泥棒が入って、宝物は取られてしまいました。・・・」
囁くような声は、控えめな抑揚とも相まって、聞いているこちらの心を本の中に誘う。
宝物を取り返そうと、島の子どもたちが名乗りを上げる。彼らは、島中大冒険し、知恵と勇気と友情で道を切り開き、見事宝物を取り返すのだ。
「ロイドは、この本好き?」
「へ。・・・あ。えっと?」
不意に聞かれて、はたと我に返った。
「ああうん、そうだな。小さい時よく読んでた記憶があるよ。」
慌てすぎて声が地味に裏返ったものの、なんとか答えて息をつく。
「大丈夫?」
「ああ、うん。」
慌てて頷く。ぼうっと見惚れていた。優しい声と懐かしい物語に完全に聞き惚れてしまっていた。
「大丈夫だよ。ごめん、聞き惚れちゃってた。」
昔、そういえばセシルにも読んでもらった事もあったものである。・・・でも、その時はこんな風にはならなかったのだが。
「え。」
エリィの目が見開かれた。顔はすぐに朱に染まる。あれ、と思った時には、ふい、と顔が背けられていた。
「・・・もう、恥かしい事をさらっと言わないでちょうだい。全く持って油断ならないわね。」
「え。」
何かマズい事でも言っただろうか。慌てて前後の行動をさらうが、思いあたる節が見当たらない。
そんなこちらに思うところでもあったのだろうか、エリィは、ふうっと息をついた。
「・・・ええと。」
「・・・あのね、ロイド。」
こほん、とエリィが咳払いをする。
「その本に対する気持ちって、意外と相手に伝わるのよ。」
「そんなもんかな。」
疑問符が顔に出たのだろうか。エリィはそんなものよ、と頷く。
「小さい頃よく読んでた本って大人になっても結構覚えてるでしょう?」
「ああ。」
「話の内容もだけど、夢中だった事とか、読んでもらってた事とか、そう言う事も思い出したりしない?」
「うん、そうだね。結構ハマって読んでたよ。・・・今読んだらかなり子どもっぽい話なのにな。」
今読めば荒唐無稽に分類されるのに、あの当時の自分は確かにこれが好きだった。それに、・・・確かに、話の内容よりも覚えているのは、なんとなくの充足感とふわりとした幸せの記憶。
「子供向けの話だものね。」
エリィが微笑む。
「この本で楽しんでもらおうって思って渡すのなら、それはきっと通じるわ。
キーアちゃんは妬けるくらい貴方の事が大好きだもの。」
そんなものかな、と問うと、そんなものよ、と笑われた。
「大好きな人と同じ本が好きって、幸せな事よ。共通の話題が出来るって事でもあるし。スタートはそこからで良いんじゃないかしら。
それに、一緒に読んだりしたら、読んでもらった記憶も残るでしょう?それはキーアちゃんにとってマイナスにはならないはずよ。」
言われてふと想う。
ソファの上。エリィが本を読んでいて、キーアと二人でそれを聞いている自分の姿。面白かったね、なんて話をして笑っているキーアは、やっぱり想像するだけで可愛くて、思わず表情が緩んだ。
「・・・なんだかいいな、そういうのって。」
喜んでもらえるかどうかは、やっぱりわからない。もしかしたら独りよがりかもしれない、とも思う。でも、その光景はそんなもの通り越して魅力的だった。
「でしょう?」
「うん。そんな本があったら幸せだろうな。」
わかってくれて嬉しい、とエリィが笑う。
「エリィにも、そんな本があるのか?」
嬉しそうな顔をしていたから、なんとなく聞いてみただけのつもりだった。
しかし、その言葉を発した瞬間、・・・エリィの表情は確実に一度消えていた。
「そうね、あるわよ。」
言いながらこちらを向いた顔は自然に笑っていたのだが、その笑みは少し寂しそうにも見える。どうやら自分は触れてはならないところに触れてしまったらしい。
「ええと、・・・ごめん。聞いちゃいけないことだったかな。」
「え?ああ、別に気にする事じゃないわよ。そうねえ、私はこっちの本がそんな感じかしらね。」
慌てたような苦笑いでエリィが手に取った本は、やはり小さい頃に見た記憶のある本だった。
「お母様がよく読んでくれていたの。お父様も一緒に聞いててね。」
懐かしいわね、と呟く姿を見れば流石に理解できる。
エリィの両親は離婚したと聞いていた。だから、幸せな記憶と共にある本は、今になれば辛さや悲しみともセットなのだろう。
・・・だが、それはなんだか悲しい事のように思えた。何か少しでも悲しみを和らげる事はできないか、と、自然に意識がそちらを向く。
「それなら、その本も一緒に買っていこうか。」
考えが完全にまとまるより先、その言葉は口をついて出ていた。
エリィが目を丸くする。
「え。」
「キーアにさ。エリィの好きな本なら、きっとキーアも好きだよ。さっきエリィがそう言った。」
「それは・・・その。でも。」
視線がまた下を向いた。違うんじゃないかしら、との呟きに、違わないから、と首を振る。
「その本、好きなんだろう?なのに、見るたびに寂しい顔してるんじゃ本も浮かばれないよ。」
「あ・・・。」
虚をつかれた体でこちらを見た顔には、怒りも悲しみも喜びも混じっていた。
「キーアと一緒に読んだら、少しは悲しい気持ちも薄れるんじゃないかな・・・って、思ったんだけど。」
笑ったような泣きそうな顔に、言葉は尻すぼみになる。
「あの、・・・その、ごめん、差し出がましかったかな。」
エリィの表情がくしゃりと歪んだ。
「・・・本当、貴方って人は・・・。」
泣きそうなまま表情のままで、ふふ、と笑う。
「エリィ?その・・・」
「・・・ありがとう。」
エリィは軽く目をこすって、ふるりと頭を振った。
「そうね、じゃあこれは私からキーアちゃんに渡そうかしら。」
気に入ってくれるといいのだけど、と言いながら、手に取った本を抱きしめる。
「え、言い出したのは俺だし、俺が買うよ。」
「ううん、いいの。これは私の思い出の本だもの。私から渡したいの。」
いいでしょう?と。そういわれたら否はなかった。
それじゃあ、とレジに向かう。
「・・・ありがとう、ロイド。」
背中越しに、ほそりと、かすかな声が聞える。
振り返った先、笑顔と悲しみと苦さと・・・後何か、自分にはわからない深いものを湛えた目に、視線を合わせた。
「どういたしまして。」
自分は大して何もやっていないけれど。そう付け加えると、エリィは、今度こそ花が綻ぶように笑ったのだった。