播磨が台所に向かったのは、夜というより夜中に片足を突っ込んだ時間だった。
大した理由はなく、少し小腹が空いた所で、なんとなく何かつまみたくなったのだ。
足音を忍ばせて歩を進める。丹波や何かに見つかると非常に面倒なのだ。確実につまみ食いの嫌疑を掛けられて説教を喰らうに決まっている。……まあ、つまみ食いに向かうのは確かなので、嫌疑も何もないのだが。知らぬが仏という言葉も世の中には存在する。
ところが。
「……?」
台所には煌々と明りが灯っていた。物音もまだしている。
「なんや、まだ寝とらへんかったんけぇ?」
ひょいと覗き込むと、濃厚なチョコレートの匂いが漂ってきた。
「あれ、播磨?何しにきたん、今は男子禁制やで。」
銀色のバット片手に神戸がこちらを向く。よく見れば、その指先はチョコレート色だ。
「お前こそ何やっとんのや、もう遅いで。日付変わってるし。」
「わかっとう。これ終わったら寝るって。」
昼に見たときは淡路と一緒にチョコレートを作っていたのだが、この時間までとなるとどれだけ手間隙を掛けているのだろうか。
呆れ半分、尊敬三分の一。よおやるわ、といったところである。
「あんまり無理すんなやー。」
ひとまず当初の目的の通り台所に入った。
「ちょっと、男子禁制って言ったやん。」
「やかましいわ。飲み物くらい飲ませえ。」
ぶうっとむくれる神戸を尻目に、ちゃっちゃと飲み物の準備をする。
湯のみに昆布茶を放り込み、ポットのお湯を注いで一丁あがりだ。後は、冷蔵庫に何か無かっただろうか。
「何か食べるん?」
冷蔵庫に手を掛けると、神戸が声を掛けてきた。
「ああ。ちょっと何かつまめるもん欲しくてな。」
「ほんなら、これとかどう?」
ほい、と差し出されたのは、チョコに染まった指先につままれたトリュフチョコ。
「ええんか?」
「うん、ほら口あけてや。」
「ほな、遠慮なく。」
口を指先に持っていくと、あけた口にぽいっとチョコが放り込まれた。最初は苦味そして甘味と酒の味。絶妙なバランスがたまらない。
「ハッピーバレンタイン、やで。……味はどう?」
「おおきに、流石にうまいわ。」
素直に評価すれば絶品だ。非の打ち所が見つからないので、素直に褒めるしかなかった。
「明日の準備か?」
「せや。家の分は終わってたんやけど、神奈川に渡す分、冷蔵庫に入れたらすっかり忘れててな。」
それで、夜中まで掛かって作成していたのだという。
「律儀なこっちゃなあ。出来合いで十分やろ。」
「だって、神奈川もお菓子作るの上手いもん、負けるわけにはいかへんの。」
トリュフチョコの素と思しきチョコの塊をころころとパウダーの上で転がしながらそう答える。
つまりは見栄を張りたいのだと、とりあえずそう理解した。
「そりゃご苦労な事やな。」
「せや。女は苦労が多いんやで。」
「アホか、誰かて苦労はするもんや。」
苦労自慢は全く持って不毛な話ではあるが。
ずずっと昆布茶を啜る。一息つくと、チョコの効果かそこそこ腹も落ち着いてきた。そろそろ戻るか、と腰を上げると、また声が飛んでくる。
「せや、播磨。この分もちゃんとお返ししてな?」
「はあ?!」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「ハッピーバレンタインって言ったやん。」
神戸は、当然のように続ける。しかし、それは飲みたくない要求だった。
「アホ、何言うとんのや。毎年俺ら贈っとおやんけ。アレ以上か。」
一昨年はバッグで去年はアクセサリー。毎度そこそこ返しているのにそれは無い。
「ええやろ、トリュフ一個分くらい。こういう事はきっちりせな。」
「アホ、こんなとこきっちりする必要どこにも無いわ。」
笑顔にも冷静にツッコミを入れる。
「……トリュフ一個分。」
「そんなん誤差の範囲内やろ。」
「トリュフ一個分ー!しかも今年一個目やで!」
「ああもうやかましいわ。俺はもう戻るで、おやすみ!」
斬って捨てて踵を返す。
「ケチっ!」
なんとでも言え、と背後に返事を投げて、播磨はさっさと台所を後にしたのだった。
そして翌日。
テーブルの上には今年もドドンと豪華なケーキが鎮座していた。
今年は二段だ。とろりとしたチョコレートコーティングの上には、濃い目のチョコクリームが品よくデコレーションされている。所々に金色と銀色があしらわれ、飾り付けられたオレンジがその茶色に色を添える。
毎年ながら、見た目から手の込んだケーキだった。
『お礼は三倍返しでよろしく。 今日は神奈川のトコ行って来るわ。』
『オレンジ仰山使うたで、味わって食べ。 今日は徳島のトコ行って来る。』
バレンタインの日の女性陣は例年留守だ。よって机の上には毎度のようにメッセージが置いてあった。
「今年は淡路も頑張ったみたいやなあ。」
お茶を淹れながら丹波が言えば、但馬もケーキを切り分けながら頷く。
「結構オレンジの香り強いで。もしかしたら今年のはかなり甘さ控えめかもな。」
……淡路のメッセージの通り、今年のチョコレートケーキはスポンジにまでオレンジの効いた内容になっていた。
ケーキ皿とフォークを運んで来た自分にすら解るレベル。味はまだ解らないが、相当期待できるのは間違いない。まあ、神戸のお菓子作りの腕は実際かなりのもので、微妙に上下あるとはいえ外れは無いのだが。
やがて皿とフォークとケーキと茶が各人の前に並んだ。
「んじゃ、いただきまーす。」
自然声も揃う。フォークで小さく切って、まずは一切れ口に運んだ。
「おお…………」
「こりゃぁ……。」
「……………………!」
美味かった。言葉が消えるほどに。
「……年々上達しとるんだなあ。」
「これ以上上達したら、どうなるんやろ。」
但馬と感心しながらケーキを食べていると、隣から低い笑い声が聞えて来る。
「……丹波……?」
「なんや、当たったんけ?」
そちらを向くと、丹波が静かに微笑んでいた。なんとなく怖い。
「……ホワイトデー。今年はわてがなんとかするわ。」
「……お、おお?」
「それは助かるけど……なん」
「神戸は腕を上げた……。せやから負けてられへん。わてもやる。」
話を聞いているのか居ないのか、丹波は問わずとも語りだす。
「絶対神戸が美味すぎて絶句するようなん作ったる……!」
どうやら、美味しすぎて何かに火がついたらしい。
あっけに取られている但馬の裾をひょいと引く。
「今年は楽できるな。」
「……ええんかいな。」
心配性に肩をすくめて返事をする。
「ええやろ。丹波もあれでプライド高いし。」
「……せやな……。」
但馬も止めることが出来るとは思っていないようだった。
「でも、神戸もよおやるわ……昨日も遅くまで作ってたみたいやし。」
ケーキを口に運ぶ合間に、但馬が息をつく。
「せやなあ。まあ、遅くまで作ってたんは神奈川の分じゃ言うとったけど。」
ずずっとお茶を飲みながら頷く。
「ほんな何種類も作ってなあ。ほんまよおやるわ……。」
「……確かに。あの情熱は一体どこから来るんやろ。」
お菓子作りが上手い神奈川には負けられない、とそういえば言っていた。あれはただの負けず嫌いだろう。しかし、我が家分の毎度の豪華さは少し不思議になるレベルではある。
……まあ、そこそこ良いものを返しているからかと思わなくもないが。
そこまで考えて、昨日そういえばチョコレートを貰ったことを思い出した。いや、正しくは、お礼を請求されたことである。
「まごころ、とか?」
「神戸がそんな可愛えとは思わへんけどな。」
トリュフ一個にお礼というのはやはりどう考えても面倒だし馬鹿馬鹿しい。
しかし、やらないと末代まで祟られそうな気もしなくもなかった。女というのは面倒で執念深いものなのだ。
……て、なんで俺が。
何にするかな、と考えてしまっている自分にハタと気付いて取り消した。無かったことにしてもう一度お茶を啜る。
どうやら自分は本格的に貢ぎ癖がついてしまっているようだった。