「相変わらず人多いなあ」
「そりゃあ、昔からある温泉やもん。」
有馬温泉は、温泉街としてはかなり大きな町である。
「ちゃんと宣伝もしてるし、イベントもやりよぅし。」
「そりゃ仕事熱心なことやな。」
現在地は駐車場。リュックを肩にかけて播磨が一息ついた。
「で、どこがええって?」
「どこもええで。三名泉の名は伊達やないもの。播磨はどこに行くつもりやったん?」
「あっちの日帰りや。安いし、汗流すだけのつもりやったし。」
指し示す方向は町の中心。有名どころではあるが、それだけに素人の選択である。
「ふふふふ、素人やね。うちのオススメはこっちの宿や。」
自分が指し示した方向はそこから少しずれていた。
泊まりか?という怪訝な表情に、にっこりと微笑みかける。
「心配せんでも日帰りできるって。値段もまあ常識の範囲内や。」
へえ、と播磨は少し驚いたようだった。
「流石地元。」
「言ったやろ、案内したるって。」
感心した、の視線が気持ちいい。
「ほら、こっちや。いくで。」
手を伸べ、手を取って、播磨をひっぱるように路地へ向かう。しばし引っ張られていた播磨も、すぐに追いついてきた。
「大通りの方やないんか。」
「ここも、路地の方が歩いてて楽しいんやで。現代アートとか、ちまちま隠しとうの。」
あっちにはハート、こっちにはオブジェと、注意深く辺りを見回せば、ほぼ宝探しのような風情だ。
「そういえば、お前街の方居っても路地好きやもんな。」
「うん、ちょっと散歩するなら路地の方が楽しいし。」
他人の家の庭を垣間見てみたり、知らない路地に入って冒険気分を味わってみたり。散歩の楽しみは路地にこそある。
「自分だけのお気に入り、て感じがええねん。」
播磨が肩をすくめる。
「わかるような、わからんような話やな。 今から行くとこもそんなんかえ?」
今度はこちらが肩をすくめる番だった。
「んー、それなりに賑わっとるし、知る人ぞ知るってとこやなあ。」
「ふーん。」
しかし、どうやらその答えでよかったらしい。
「けど、そりゃ期待できそうやな。」
笑った顔には微笑みで答える。
「うんうん、期待しとってええでー。」
なんとなく心が軽くなった。身体も軽くなって、足早になる。
「おいこら、引っ張るな。」
抗議の声は後ろから聞えてきた。
尤もそういいながらも、播磨はなんだかんだしっかりついてきてくれている。それがふわりとした心をさらに浮かせた。
軽くターンして、スピードを緩める。
「ごめんなあ。」
出てきた声は、我ながら浮かれた声だった。
待ち合わせ時刻は、男女に分かれて一時間半後になっていた。
長すぎやろ!?……との播磨の声を爽快に聞き流して押し切った結果である。レディは入浴にもそれなりの時間が掛かるものなのだ。おまけに温泉である。ゆっくりじっくり浸からねば勿体無い。
少し温度の高い温泉につかって、少し休憩して、また浸かって、濁った湯を身体の隅々にいきわたらせる。
そして、ほかほかと暖かい身体を脱衣所まで上げたら、髪を乾かしてきっちりと化粧をしなおした。
入る間際にふと鏡を見た時、案の定化粧は盛大に崩れていたのである。この顔を人目にさらしていたのかと思うと、さすがに若干悲しい気持ちになった。……過ぎたことは仕方ないのだが。
着替えを済ませてロビーに出ると、既に夕暮れ近い光が差し込んでいた。少し柔らかな黄色い光が心地よい。
先の方には、お洒落な木枠のソファが並んだ区画。見慣れた後姿が、ぼんやりと弛緩した身体をそのソファに預けている。髪もまだ少し濡れているようで、その姿は少し艶かかって見えた。
駆け寄ろうとも思ったが、思い直す。そして、そっとそっと気配を消した。忍び寄るように背中に近づき、首に手を掛けるべくそろそろと手を伸ばす。
が。
「俺の背後取ろうなんざ一万年早いわ。」
伸ばした手は、目的を達する前にあっさりつかまった。同時にぐぐっと手がひねられる。痛い。
「ちょ、やめて!やめてって、痛いって!」
もう片方の手で、ひねられた手を救い出しにかかる。しかし、そちらの手もその前に手首をとられてしまった。
「何するつもりやったんや?」
面白がるような声。
「何でもええやん、驚くやろかって」
「ほほう。」
ぐい、と手に力が入った。
「痛たたたた!ちょっと!やりすぎやろ!」
思い切りぶんぶんと手を振ると、播磨の手はあっさり外れた。
が、その勢いあまってソファの背に強か手を打ちつける。
「ったあ!!」
思わず手を抱え込むと、播磨が吹きだした。
「おまっ……何やっとんのや、一人コントかっ……!」
腹痛いわ、とばかりに笑っている播磨の脳天に両の拳を組んで振り下ろす。笑いはすぐ苦悶のうめきに変わった。いい気味である。
「誰が一人コントやって?」
地味に痛む両手をぶらぶらと振りながらその姿を見下ろす。播磨は、がし、とソファの背に手を掛けてソファから立ち上がった。
「何すんのやこの暴力女!」
「どっちが暴力ふるっとんのや!」
次の一言を言おうと息を吸ったその時。
「……何や、こんなとこで喧嘩?」
迷惑そうな呆れ声が聞えた。声の方向を見ると、宿の客と思しき人々がこちらを見ている。
「痴話喧嘩やろか?」
「でもあれ、神戸さんやない?」
その視線に気づいたか、腰を浮かせていた播磨も、すとんと椅子に戻った。
「え、でも神戸さんがそんなするわけないやん。」
「…………。」
死ぬほど恥かしかった。
「……おい、出るで。」
ぼそ、と声が飛んでくる。
「……わかった。」
無論否はなかった。
「全く、恥ずかしいったら。」
逃げるように宿を出て、道を駐車場へ逆戻る。
「誰のせいや。問答無用でどつきよって。」
場所考えや場所。播磨はぶうぶうと不服そうである。
「その後怒鳴るからあかんかったんやろ。」
耐えてればこんな事にはなってない。そう言うと、ぺちんと指弾が飛んできた。
「あんな力いっぱいどつく奴があるかい。」
「あんたが余計なこと言うから」
「一人コントを一人コントと言って何が……」
途中で思い出したのか、播磨が小さく吹き出した。
……腹が立つとはこのことだ。
「いきなり手ぇ離すからやろ!」
ばん、とラリアットを入れる。播磨はたたらをうって前につんのめった。
「ったたた……!だからすぐに手ぇ出すなって!さっきお客も言うてたやろ!」
「何て?」
「『神戸がそんなするわけない』て。」
言い返せなかった。
言葉に詰まったこちらを見ながら、播磨は、イメージって凄いなあ、などと笑っている。
「精精イメージ壊さんようにせえや。」
バイクに向かうその背は、勝った、と如実に語っていた。
「……!」
いちいち腹立たしいその背に、助走をつけてタックルをかける。そして流れるように腕を首に掛けた。
「うおあ!?」
「心配せんでも、こんな真似すんのはあんた相手くらいや。
いちいち神経逆撫でしよって、この!この!」
ぐい、ぐいっと首を絞めると、ギブギブ!と腕が叩かれた。
「アホ、加減せえ言ってるやろ死ぬわ!」
「大丈夫、うちらそうそう死なへんしー。」
ぎゅう、と抱きついたままで嘯いてみせる。
「あんたに手加減したら負けそうやし?」
「このまんま投げ飛ばしたろか、ああ?」
凄んで見せたと思しき低い声に、きゃーっと棒読みで悲鳴を上げてみた。
「播磨がいじめるー。」
「何がいじめやっ!こら!離れえ!」
うりゃあ、とじったんばったん暴れる背中にぎゅっとしがみ付く。揺れる感じ、振り回される感じが面白かった。
「あはははは、嫌やー。今日はしっかり掴まっとけって言うてたやーん。」
「今やなくてええわー!」
じったばったと暴れる播磨の声にも笑いが混じる。
「後ろ乗ってからで十分やって!」
そのままバイクまであと数歩、のところまできて、ほりゃっと腕が外された。
「ほい、おふざけは終わりや。荷物よこせ。」
「はーい。」
着替え入りのバッグを渡すと、それはすぐにリュックに入り、タンクにくくりつけられる。
「次はどこに行くん?」
「東回りで帰るつもりやけど。」
所要時間と空の明るさを考えると、家に着くのは大体暗くなった頃である。
「なら、帰りに寄りたいトコあるんやけど。」
言うと、播磨は、かまわへんけど、とこちらを向いた。
「どこいくんや?」
「えっとなあ……」