とはいえ、確かに播磨は少しこちらを気遣う気になったらしい。
スピードは言うほど落ちていないが、曲がるときにはかなり速度を落とすし、追い越しも減った。
フルフェイスのヘルメット同士で会話など出来ないが、ぴったりくっついているせいか、視線の方向や小さな体の動きで、なんとなく意図する事がわかる。それはあちらも同じらしく、ある程度は此方の意図したところで速度を落としてくれるようになった。
こうなると、余裕も出てくる。辺りの風景が楽しくなってくるのだ。走るのは山際の道。トンネルを一つ抜け二つ抜けするたびに景色が変わる。自分の地元なのに何か新鮮だ。
右の山、左の山と見ていると、播磨がぐっと身じろぎした。何があったかと視線の先を見ると、すっと視界が広がる。
「へえ……!」
道の先に、どん、と湖があった。
古いかやぶきと思しき住宅が近くに見える。懐かしいな、などと思っているうちに、バイクはそれを横目に見て、湖沿いのルートに入っていった。
ゆるいカーブの続く道を、風を切って走る。水面がキラキラとまぶしかった。上を見上げると、雲まで光って見える。
ぐんとスピードが上がった。景色に興が乗ったか調子に乗ったかしたらしい。この速さだと、風を切るというより風になったような感覚すら覚える。
それが気持ちがいいと思えるくらい、恐怖は薄まっていた。命がけのジェットコースターも慣れればなかなか楽しいものだと、ぎゅうとドライバーを抱きしめる。
風と一体になったバイクはやがて展望台に入った。
出入り口には自販機、奥には藤棚のような休憩所。車やバイクが相当数停まっていて、ドライバーと思しき人たちが思い思いに談笑したり休憩したりしている。どうやらここは、展望台という名の駐車場兼休憩所のようだった。
「ほい、休憩ー。」
バイクが停まり、ヘルメットを外す。ばさばさと頭を振ると、風が顔と首筋を撫でていった。
ほい、とリュックから出てきた紅茶も口に含む。若干ぬるくても水分は水分で、喉によく通った。ふと見れば、隣はジャケットを脱いで思い切り伸びをしている。
「あー、風がええなあ。」
播磨が、よいせ、とバイクに寄りかかった。
「バイク、ちったぁ慣れたか?」
「うーん、せやね。さっきの湖沿いの道は気持ちよかったわ。」
ジャケットを緩めながらそう応じると、播磨はそうか、と笑った。
「そりゃよかった。ほな」
「でも、やっぱりあんまりスピード出さんといてや。怖い。」
間髪いれずに釘をさすと、どうやら出鼻をくじかれたらしい。
「へいへい。」
つまらなさそうな、小さな舌打ちが聞えた。でも気にしない。きょろきょろと周りを見回すと、展望台と思しき場所が見えた。
「あっち、展望台やろ。行こう?」
「せやな。」
がちゃがちゃとヘルメットをくくりつけて、展望台端に向かう。見えたのは山に囲まれた湖の姿だった。奥のほうには先ほど素通りした古い家。ここに人が多いのは、景色のせいでもあるのだろう。
「これはこれで綺麗やな。ここに人多いのはそのせいなん?」
「せやなあ、それも半分。あと、サイクリングロードあったりするし、走り甲斐あるからってのもある。」
そういわれてみれば確かにそうだ。あの風になった感覚を思い出して、なんとなく納得する。
「まあ、人気には違いないで。近畿中からライダー集まってくるけえなあ。」
「へえ、そんなに。さすがうちの湖や。」
「アホ、うちのダムじゃ。」
まあ、作ったのは国ではあるし、用水のためとはいえ作るときはかなり嫌だったのはそうなのだが。
風がふわりと吹く。視線の先の道には、自分たちと同じように走るバイクもいくらか見えていた。
「んー、気持ちいいなあ。」
「せやなあ。」
手すりにもたれて風を満喫する。
と。
「おーい、播磨かあ?」
知らぬ声が播磨の名を呼んだ。振り返った播磨の表情が一気に明るくなる。
「おお、せんどぶりやな!」
小脇にジャケットを抱えた40過ぎかと思われる男性は、どうやら播磨の知り合いらしい。
「おう。しっかしお前、相変わらず若いままやなあ。」
「せやろ、なぜか変わらへんのや。」
あっはっは、と景気のいい笑い声が響いた。
「そっちは彼女さんけえ?ええ身分になったもんやなあ?」
「んや、同居人や。」
祝福だかからかいだかわからぬ言葉に、播磨は即答を返す。
「へえ、嫁さんとかおったんか。」
「ちゃうわ。」
またしても即答。
……少しは照れるくらいの芸当を見せればいいのに、とこういう時切に思う。別に彼女で居たい訳ではないが、まったく意識もされてないというのは、なんともプライドを逆なでしてくれるのだ。そう見えてたんやなあ……なんてうっかり一ミリほどでも嬉しいと思ってしまった自分に謝れ、と思う。
しかし、そんな此方の気持ちはあちら二人には通じないらしい。
「ちゅうか、見てわかれや。こっち、神戸や、神戸。」
「ああ、神戸さんかあ。格好が格好やったけえわからへんかったわ。」
あっはっはと笑って、彼はこちらに向き直った。
「はじめましてやな、播磨とは昔よう走っとったんや。」
こちらこそ播磨が世話になって、と礼を一つ。それを見ていた播磨が肩をすくめる。
「格好くらいでわからんようなるもんけえ?」
「だって、神戸さんが着てる服、お前のやろ。神戸さんとはイメージ違うわー。」
……不本意ながら確かにそうだった。
少々ゴツめのジーンズにこれまたしっかりしたブーツと太めのベルトを合わせ、お気に入りのTシャツ……とここまでは自前だ。しかし、上から着ているのは出かける前まで播磨が着ていたライダージャケット。少しサイズの大きいグローブも播磨から渡されたものだ。ついでにヘルメットも、出掛けに遊んでいた新品のフルフェイスである。
後ろに乗るならそれなりの装備をしないと危ないからと、比較的新しいものがほぼ強制的にこちらに回ってきたのだ。
「装備もってへんかったから貸したっただけや。」
だから、播磨当人はグローブもヘルメットも古いものをつけている。
「もってへんってことは、二人乗りで来たんか?」
驚いた風な言葉に、播磨は肩をすくめて頷いた。
「せや。神戸が怖がるから超安全運転でなあ。」
高速でもうちょい遠出するつもりやったけど、こりゃ無理やろうなあ、……などと空恐ろしい事実もついでに零れ、思わずそちらを見やる。
「へえ、播磨も安全運転とかできたんか。」
「どういう意味や!俺かて後ろに素人のっけてる時くらい気ぃ使うわ。」
良識だか良心だかわからないが、ひとまず播磨にそんなものがあってよかった、としか言いようがなかった。
「で、高速乗らへんなら峠攻めけえ?もしくは裏六甲無断進入とか」
「アホ、素人乗っけてそんなことできるかい。」
「やっとったん?!」
思わず声を上げると、播磨が舌打ちをし、相手は笑い出す。
「あかんやろ、あんた仮にも」
「あのな、昔は裏六甲も普通に走れたやんけ。」
やってない、を前面に押し出して播磨が言った。相手の方も、うんうん、と頷く。
「景色も道も面白いけぇなあ。
やんちゃしたくなる事だってあったもんなあ?」
「せやなあ、あの坂燃えるもんなあ……って何言わせんねん!」
すっぱーん、と良いノリツッコミ。弾ける笑い。自分の知らない思い出話も織り交ぜて、置いてけぼりの会話はテンポよく進んでいく。
兵庫の家に居る時よりよっぽど生き生きしている、見知らぬ播磨の姿がそこにあった。二人で楽しげに騒いでいる様子にも、感じるものは疎外感だけだ。
……邪魔やったんかなあ、とふと思った。
播磨は普段、自分が一緒と言うと大体嫌な顔をするのだが、大抵はポーズであることが多い。だから多少の抵抗は嫌がったうちには入れていなかった。大体本気で嫌なら、播磨は問答無用で自分を置いて行ってしまうのだ。
でも、今回は。
『俺の楽しみ邪魔すんなや』
出掛けの言葉が頭をよぎった。本気で邪魔だった、という可能性が頭をよぎって、なんだか寂しい。
「ん、神戸。どうした?」
「んー、別に?」
平静にそう言うと、播磨は、ほうけ、と肩をすくめた。そしてすぐまたあちらを向いてしまう。自分の所在無さがまたのしかかる。
ところが。
「じゃ、俺らもうそろそろ行くけえ。またな。」
あちらの会話はざくっと途切れ、ほれいくぞ、と肩を叩かれてしまった。
「え、まだええのに。」
驚いて見上げるが、別に何があったという風でもない。
「おう、またなあ。気いつけぇや。神戸さんもまたな。」
何かわかったのか何なのか、相手の方にも笑顔で見送られてしまった。
「ほな。」
ぺこっと一礼して、播磨にひっぱられるように展望台を後にする。
「まだ喋っててよかったんやで。」
「せやなあ、まあ気分や。」
このままやと夜までに有馬まで辿り着けへんし、と、それっぽい言い訳もついてくる。
しかし、それはそれっぽいだけだった。湖も温泉も同じ神戸市内だ。西の端から東の端だが、それでも大した距離ではなく、掛かったところで一時間はない。
……気を遣ってくれたのだろうか。
当然なような、若干申し訳ないような、ちょっと嬉しいような。
伺うような視線には気づいていないとみえ、播磨は景気よく此方に声を掛ける。
「さあて、こっから有馬までちいっと長いでー。」
ほいっとヘルメットが飛んできた。
「しっかりつかまっとき。」
ただし、俺を絞め殺さん程度になー。
播磨はカラカラと笑ってヘルメットを被る。
「安全運転やで、安全運転。」
びしっと言うと、わかったわかった、という風にヘルメットが頷いて、グローブが頭の上で軽く弾んだ。