執務室には、ひんやりとした朝の空気がまだ残っていた。
さらさらと、ペンを紙に走らせる音。それが、ふと止まる。
「今日、ですね。・・・結婚式。」
ペンを執っていたクローディアがつぶやいた。
「はい、そう聞いております。」
傍に控えていたユリアが応じると、止まっていたペンがまた走り出す。
「・・・綺麗なんでしょうね。」
ややあって、再びクローディアがつぶやく。
「ええ、そうでしょうね。」
応じる声も少し緩んだ。本日の主役であるところの新婦は、少女時代からなんとも愛らしい娘だったのだ。
本当にね。微笑んでそう応え、クローディアも変わらずさらさらと紙の上にペンを走らせる。
静かな部屋にあるのは、海の音、風のざわめき、書き物の音。
一枚、また、一枚。処理済の書類を積み上げながら、クローディアがまた口を開く。
「皆、行っているのでしょうね。」
視線は書類からそらしていない。
「そこまでは判りません。しかし、彼らがもしも知人皆に声を掛けていたら、それは盛大な事になるでしょう。」
書類をまた一枚、重ねる。
「シードさんも出席されるとか。」
ペンが紙の上を滑っていく。
「あの方は、レイストン要塞にいらっしゃった頃に、浅からぬご縁があったと聞いております。」
そう答えた。半ば公務のような形で出席するらしい。本来、一技術者の祝いの席に出席するなどあり得ないのだが、中央工房とレイストン要塞の縁は深い。整備点検他で、技術者である新婦の世話になった事も多かったのだ。
それに、よくよく考えなくても、遊撃士をやっている新郎の方も相当仕事で関わっている。
代理を立てるかと思われていたが、結局シード本人が出席する事になっていた。ここまで来ると、恐らく個人的なつながりもあっての事と思われた。
「カシウスおじ様も。」
クローディアは、さらにもう一人の人物の名を口にする。
「あの方は、新郎の後見人のような事をされていたと聞いております。」
忙しいはずのその人は、式の日取りが決まった数ヶ月前に、即休みの届けを出していた。今頃はツァイスの町にいて、新郎で楽しく遊んでいるところだろう。
そういえば、エステルやヨシュアもそれに合わせてリベールに戻ってくるのだと聞いていた。
・・・ツァイスは、きっと今頃とんでもなくにぎやかに違いない。
「私も、共に旅をしていたのですが。」
クローディアの口調に、淡々と不機嫌がにじむ。
「存じ上げております。」
応じる、しか、できなかった。
結婚の知らせは、カシウス経由で早くから届いていた。二人からの手紙も受け取っている。
その話をいつぞ会談に訪れていたオリヴァルト皇子にした所、それは興味深そうに笑っていたものだが。
ふう、とため息の音。ユリアが意識をそちらに戻すと、クローディアが此方に向き直る。
「・・・今日の予定は、どうなっていますか。」
「本日は内務をしていただく事になっております。来客、謁見の予定は入っておりません。」
予定は諳んじていた。そう告げると、クローディアが目を見開く。
昨日の夜にまで、はっきりしたことは決まっていなかったのだが、今日の来客と謁見の予定は、なしである。それは、そっとそっと、この日の予定を避けておいたからでもあるのだが。
椅子が少し音を立て、クローディアがすっくと立ち上がった。その目は、昔学生をやっていた頃のような、旅をしていた頃のような、そんな煌めきを宿している。
「今から行けば、定期飛行船の時間に間に合いますね。」
不機嫌の影は欠片も無い。此方としても、元よりそのつもりで予定を空けておいたのだ。
「殿下。」
頷くと、クローディアは生き生きと頷いた。
「着替えてきます。ユリアさん、護衛よろしくお願いします。」
「ハッ。」
クローゼットへ向かうその足取りは、羽よりも軽い。
そんな主の後姿を見ながら、ユリアは上手く城を抜け出す方法を頭の中でもう一度シミュレートするのだった。