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眠り薬とピアスの片割れ

 さわやかな目覚めだった。
 よく寝たしよく眠れたという充足感、暖かい布団にくるまれた幸福感、ここ最近の疲れも寝不足も全部吹き飛んですっきりと晴れた思考と心、そして身体。
 寝ころんだままぐっと背を伸ばすと、血液が体中にいきわたるのを感じた。柔らかに差す日の光も心地よい。
 明るい部屋の中で、むくり、と体を起こす。すると時計が目に入った。

 時計の針は1と12を指していた。
 昼である。
 そして今日は平日だ。

 ドーラは飛び起きた。
 「あーもうっ!なんで起こしてくれなかったの!?」
 パジャマのまま学校行きの荷物をひっつかむと、そのままバタバタと階下に降りる。
 しんとした平日の昼間の家に慌てふためく音を響かせて、ソファに荷物を放り投げ、また上がろうとすると、テーブルの上にいた人形に目が留まった。セーラが作った人形が小さな連絡用のホワイトボードを掲げている。

 「ドーラへ
  起こしても起きなかったからもう出るわ
  学校には今日はサボりって連絡したから感謝しときなさい」

 明らかにセーラの字のメッセージに、ドーラは膝から崩れ落ちた。
 はあああ、と深く息をついて、のろのろと学校用の荷物を手に取る。
 中に放り込んでいた携帯端末は着信と目覚ましの通知で元気にぴかぴかと点滅を繰り返していた。普段なら携帯の着信や目覚ましが鳴れば起きるのに。何なら階下で家族が動き出したら自然と目が覚めるのに、本当に起きれなかったらしい。この時間まで。
 どう考えても軽く……
 そこまで考えて、ドーラはふと疑問を覚えた。
 昨日の夜。確かダリアのところで作業をしていて、……確か一つパーツが動くようになって、ダリアが見とくよ、と言って……そこから先の記憶がない。時刻はまだ日付が変わるずいぶん前だったはずだ。
 自分が椅子で寝ていると、ダリアは基本的に起こして部屋に帰すか、仮眠とみなしたら毛布を掛けてくれていたりする。
 ということは、自分は寝ぼけながら部屋に戻ったのだろうか。
 どう考えても記憶が飛んでから12時間は経過している事実に思い当たり、またため息をつく。すっきりした目覚めも、これだけ寝ていれば当然の帰結だった。外から聞こえるのどかな小鳥の声すら今はなんだか情けない。
 そういえば。
 ダリアの部屋で寝てしまったとしたら、昨日の作業分はどうなっただろうか。
 ハタと気づいて、ドーラは荷物片手にダリアの部屋に向かった。部屋の主は今はいないが、それだけは心配だ。どんな状態で保存されているのか、されていないのか、それだけでも確かめなくてはならない。
 ダリアの部屋のカギはいつも通り開いていた。とりあえず中に入り、昨日使っていたパソコンをたたき起こす。
 スリープ状態のパソコンは、昨日意識が途切れた時のままの画面を映し出した。
 とりあえず保存して、ふ、と息をつく。今日はもうサボるのならこのまま続きをしたい気持ちはあるが、部屋の主は当然のように仕事で不在だ。さすがに一声かけてから作業するくらいの遠慮と良識はドーラにもあった。
 自室のパソコンは少し心もとないが、まあできる分だけは自室でやろうか、と方針を決める。
 「その前に着替えないと」
 そしてメモリを持ってこないと。つぶやいて伸びをすると、ふと、あまり見かけないものが目に入った。
 ダリアの机の上。窓から差す光の脇に、何か、薬の箱のようなものが見える。
 興味を惹かれて、パッケージをちゃんと確認すると、どうも睡眠薬の類らしい。眠れないならコーヒーやめればいいのに、と思いながら開いた箱から覗く薬を確認する。
 二切れ切れている、ブリストルパック入りの白い錠剤。
 何か、記憶に引っかかった。
 この錠剤、このサイズ、このブリストルパック。昨日、確かに見た気がする。

 『薬局でサプリをもらったんだ』
 『目に良いそうだよ』
 『まあもったいないし』

 そうだ。
 そういってダリアはこれを自分に飲ませたのだ。
 思い出すと同時に、思考が疑問符で埋まる。
 なんでそんなことをしたのか。
 嘘をついてまで飲ませたのはなぜなのか。
 何かたくらみがあったのだろうか。
 全て解らない。
 ただ、だまされた不快感と、作業途中で強制退場させられたという事実、理由も何一つ言われなかったという怒りが混乱とともに頭を埋め尽くす。
 額を抑えると、ドーラは一つ深々とため息をついて、頭を振りながら自室に引き上げたのだった。

 部屋に戻ると、ドーラはさっきまで寝ていたベッドにぱたんと倒れこんだ。
 すっきり目覚めて寝る気はしないが、元気に活動する気分にもなれない。
 「……なんで?」
 つぶやきは天井に吸い込まれ、日中の人のいない静けさがまたあたりに残る。
 息をついてころりと転がると、何か硬く小さなものが手に触れた。なんだろう、と手に取ってみると、緑色の石のついたまち針…にしてはずいぶん小さい何かだ。サイズは画びょうほどもない。しかし、なんだかその緑色に見覚えはあった。
 「ダリアのピアス?」
 目の近くまで持ってきて、むくりと体を起こす。
 なんでこんなところにあるのだろうか。基本的にダリアを部屋に入れることはないのだが。
 ただ、早めに途切れた記憶、自分のベッドで目覚めたことを考えると、ダリアが運んできたと考えるほうが自然である。
 問題は、なぜそんなことをしたのか、だ。
 睡眠薬をだまして飲ませて、ベッドに運んで、ダリアは何がしたかったのか。
 一瞬鳥肌が立つような想像をしてしまい、ドーラは自分を抱きしめた。いや、万が一にもそれはない。ないと思う。
 ならほかに何があるのだろう。実験だろうか?それならなぜ被験者に許可をとらないのか。何かマズい事でもあったのか。
 それでも、ダリアはそういう時は一応何かしらいうだろう。きっと直前になって身動きできなくなってから、『これからちょっと実験をするよ。なあに痛くしないから大丈夫』とか言い出すのだ。それはそれでろくでもないが、言わないよりは百倍マシだと今なら思える。
 目的が分からない。自分では結構近くにいるつもりだったのに、ダリアの思考がわからない。……なんだか怖い。
 「……何がしたかったの?」
 悪いこと、良いこと、興味本位なのか真剣なのか。
 わからない輝きを放つピアスを机のほうにとりあえず置くと、ドーラはまたベッドに転がって目を閉じたのだった。


 意識が上層に押し出される。
 どうやらドーラは長考に入ったらしい。何やらダリアの不審さが気になるらしいが、ダリアが不審なのはいつものことである。
 そんなことで身体を押し付けるな。そしてそんなことで考え込むな。
 深いため息をつくと、フィユティーヌは体を起こした。
 昨日までの重だるさはなく、とても快調に体が動く。寝不足でないのは久しぶりだ。それだけでもちょっと気分が良い。
 昼の光は柔らかで、小鳥の声も心地よい。足取り軽くベッドを飛び降りると、フィユティーヌはいそいそと自分の服に袖を通す。自分が着替えるときは、自分の服。そんな生活にも結構慣れてきた。今はクローゼットの1/3ほどはフィユティーヌの領分だ。
 ひらりと揺れる巻スカートとフリルのあしらわれたシャツに身を包むと、フィユティーヌは意気揚々とドーラの机に向かった。
 ドーラは自室をアトリエのような使い方をしている。一応学校用の本やノートも置いてあるが、机横の棚は様々な素材が大部分を占めていた。ダリアのところに入り浸っているのだって玩具というか人形作りの延長で、あそこでくみ上げた部品をこちらで本体に組み込んで遊んでいることも多い。
 そして、作ってしまうと大体放置になるのだ。たまに分解して使いまわしているのは見るが。
 机の脇のスペースに着実に増えている、完成未完成問わずもう放置されつつある人形。それを整えたり、セーラやメシュレイアに習ったお裁縫で服を新調してみたりするのが、フィユティーヌのひそかな趣味だった。
 未完成品で放置されているものを見て、なんだか自分のような気がして手を出してしまったのが始まりで、それ以来ちょいちょい手をかけている。自分のガラではないと思うが、なんとなく。ちょっと気が向いたときにやるだけだ。幸い手先の器用さとセンスはドーラよりマシなので少しずつ人形の服は増えていたりする。
 ……まあ、その人形の服を別の人形に流用されることもあったりなかったりするのだが。
 近くに置いていた服飾の本と、裁縫箱。それと作りかけの服にちょっと気に入っているレースのリボン。全部抱えると、フィユティーヌはそのまま階下に向かう。
 陽だまりのリビングには柔らかいソファにちょうどいいサイズのテーブルがある。ちょっと軽食を食べながら優雅にお裁縫を決め込もうと思ったのだった。

 ちくちくと作業に没頭し、やがて夕方近くになると、出ていた家人たちも続々と戻ってくる。
 「ただいまー!あれ、フィユティーヌ?あ、またかわいい服作ってる!」
 「……騒がしいのが来たな」
 ショコラのにぎやかな声に何となく安心する自分を棚にしまい込み、フィユティーヌは裁縫道具を片付けにかかった。
 「ちょっとー、お帰りなさいくらい言ってよ」
 「おかえり。」
 気分がいいとこういうやり取りもそこまで苦にならない。
 目を丸くするショコラを放置し、道具を抱えて一度部屋に戻る。
 家に帰ってくるのは、大体一番最初はショコラ、それから少したってからセーラとメシュレイア、そしてラヴィとナタリーだ。ダリアは日が沈まないと帰ってこない。
 「起きれたのね。サボりはどうだった?」
 帰ってきた途端そう言ったセーラに鼻を鳴らすと、メシュレイアが困ったように笑った。
 「あんまり起きないからちょっと心配してたんですよ。」
 「ああ……なんか眠りが深かったみたいだな。」
 「寝不足、酷かったみたいですからね。でもよかったです。」
 メシュレイアはほっとしたように笑って……すっと表情を変えた。
 「じゃあフィユティーヌ。今日のご飯作るから手伝いなさい。」
 「……チッ」
 セーラだ。そのまま部屋に逃げようとも思ったが、メシュレイアの困った顔がふとよぎって、フィユティーヌは結局手伝うことにしたのだった。
 セーラに指示されつつ、メシュレイアを手伝いつつ支度をしていると、やがておいしい匂いがフロアを賑わす。今日のメニューはスープにサラダにマカロニとソーセージのグラタンだ。
 夕飯近くなるとダリアたちも戻ってきて、一緒に夕飯を食べるのがいつものパターンだった。 
 「今日はフィユティーヌくんだったんだね。」
 いただきます、から既ににこやかなダリアは、なんだか計画がうまくいったときと同じような顔をしていて微妙に腹が立つ。
 「よく眠れたかい?」
 「……よく言う。」
 薬を盛ったくせに白々しいにもほどがある。寝すぎの原因は疲れもあるが、どう考えてもあの薬だ。
 「結局学校サボったのよ。」
 「まあ。」
 セーラが言うと、ナタリーがあきれたように声を上げた。
 「フィユティーヌ、そういえば結局何時に起きたの?」
 のどかなショコラに、フィユティーヌは顔をしかめる。
 「……昼過ぎだ。」
 「そんなに寝てたの!?」
 驚くショコラの向こうで、困ったような顔のラヴィがこちらを向く。
 「……今日、眠れそうですか?あったかいミルク、用意しておきましょうか。」
 無言で頷くと、ラヴィは困り顔のまま微笑んだ。
 「生活リズムは大事ですからね。ちゃんと夜寝て朝起きて、お日様を浴びないと。」
 「寝だめはあまりお勧めしませんわよ。……まああなたの場合は睡眠負債の返済というところでしょうけど。」
 ナタリーもそう言ってスープを口に運ぶ。
 「顔色も戻ったみたいですし、思い切り眠れてよかったんじゃありませんこと?」
 顔色まで悪かったのだろうか。ナタリーですら気づいていたのに、自分は全く気付かなかった。
 素直に肯定するのもなんだか悔しくて、ぷい、と顔を背けると、ぱちん、とダリアと目が合う。
 しかしダリアは、何もなかったかのようにすうっと目をそらした。
 「ダリア、お前は眠れたのか?」
 「……おかげさまで、睡眠は十分に取らせてもらっているよ。」
 にこ、と笑顔を張り付けるダリアに、冷たい言葉が飛んでいく。
 「例によって一番最後に起きてきましたわよね。」
 「今日は遅かったよね。ショコラがおうち出る時間くらいだったっけ。」
 「まあ、そんなところだね。」
 言いながら、何もなかったかのようにパンに手を伸ばす。
 その時、ちり、と何か光るものが見えた。ダリアの耳元に、金色の小ぶりなフープのピアスが光っている。
 「ダリア、ピアス変えたの?」
 ショコラが、あれ、と声をかけた。
 「ん、ちょっといつものが見当たらなかったんでね。キャッチはあるんだが、本体が片方見つからないのだよ。」
 まあ、見かけたら教えてくれたまえ。
 ダリアは半分諦めた顔でゆるく笑う。だが、その本体は多分、今は自分の部屋にあるはずだ。
 いうべきか、と思ってそちらを見ると、また、ぱちん、と目が合った。二度目ともなると何か見られているようなきがしてしまう。
 「なんだ?」
 問うと、ダリアはまたすうっと目をそらした。
 「あー……そうだ、フィユティーヌくん。よかったら明日、学校のあと付き合ってくれないかね?」
 買い物に行きたい、とダリアは言う。そういえば明日はダリアが食事当番だった。
 「……なんでだ。」
 「私は明日は早く上がるし、終業予定を考えるとキミが時間的にちょうどいいからね。」
 「それとボクが付き合うのに何か関係があるのか?」
 そもそも自分が学校終わりに表にいるかどうかもよくわからない。ドーラは結局考え込んでしまったのか、ずっと出てくる気配を見せなかったが、さすがに明日は出てくるのではないかという気はしていた。
 「二人で行けば大物も買いやすいだろう?」
 「フィユティーヌを荷物持ちにしたいの?」
 ショコラの鋭いツッコミに、ダリアは一瞬かたまって、いやいや、と首を振った。
 「ちゃんと分担するよ。もちろん。」
 「確かに、小麦粉はそろそろ切れますね」
 「牛乳は明日の朝でなくなると思うわ」
 付き合ったが最後、重たいものを持たされる予感しかしない。
 「嫌だ」
 「あなたも一緒に住んでるんだから少しは手伝いなさい。」
 きっぱり断ろうとしたフィユティーヌに、セーラはピシッとそう言い放った。
 「まあそういうことで、よろしく頼むよフィユティーヌくん。」
 ダリアは、何かよくわからないがホッとしたように笑う。何かこう、……うまく話がそらせた時のような。
 「お前何を企んでる?」
 「私はみんなの幸せを願っているだけさ。まあ、切れかけてる食料を買いにいくのは当たり前だろう?」
 すっかり普段の調子で、気障なセリフを平然と吐く。
 「うさんくさ」
 「うさんくさいですわね」
 「うさんくさいわね」
 ショコラとナタリーとセーラの連続の言葉に、ダリアはとてもショックを受けたような顔をして食卓に沈み込んだ。
 「ええっと、ほら、ダリア、そう言ってますけど、みんな感謝してるんですよ。」
 「ラヴィ、キミだけだよ」
 どさくさ紛れにダリアはラヴィの手を握って頬を擦り付ける。
 「その手を放しなさいっ!」
 その手をぺちんと払い、ナタリーがどやしつける。
 ダリアはしょんぼりと手を放して、悲しげに食事を再開した。だがその目は笑っている。いつもの茶番だ。くだらない。
 見ているのもバカバカしくなって、フィユティーヌは目の前にあったパンをえいや、と大きくちぎり取ったのだった。

 シャワーを浴びて自室に戻ると、フィユティーヌはぱたりとベッドに倒れこんだ。
 それに伴い、意識が勝手に表層に出てくる。ドーラはしぶしぶ起き上がると深くため息をついた。
 食事のときも、リビングにいた時も、一緒にいる間中、ずっとダリアはこちらをうかがっていた。多分、間違いない。
 昨日の薬のことを気にかけていたのだろうか。
 ……だが、そういうことなら直接言えばいいのに、結局こちらの様子を伺うだけで、肝心なことは特に言わなかった。弁明も言い訳も何もなく、ただ様子だけ伺っている。なんだか観察されているようだ。
 「何企んでるんだろ」
 実験なら実験と言ってくれればまだ怒れるのに、と思う。
 机の上に目をやる。ダリアのピアスはコロンと転がったまま、自分で聞きに行けばいいだろう、というように知らぬ顔で鈍くきらめいていた。
 だが、自分で聞きに行く勇気はなかった。下手に聞いて丸め込まれるのも嫌だし、決定的にまずいことを聞いてしまうのも避けたい。ダリアのほうから何も言ってこないということはつまり、何かあるのだ。多分。
 正直、怖いと思う。
 多分、自分はダリアのことをそれなりに信用していたのだろう。その分だけ、何を考えているのかわからない事が怖いのだ。
 ドーラはまた深く深くため息をついた。
 データを移し損ねたせいで、作業中のデータはダリアの部屋にある。続きをやりたい気持ちは正直ある。それでも、さすがに昨日の今日でダリアのところに行く気にはなれなかった。結局ドーラはさっさと寝間着に着替えると、部屋に久々に鍵をかけ、そのままベッドに転がり込んだのだった。
 

 本日もドーラは出てきたくないらしい。世話の焼ける同居人だ、と、フィユティーヌは内心で肩をすくめる。
 さわやかに目覚め、お気に入りの服を着て学校に出かけ、授業を聞き流してノートを取ったり、普段通りに過ごしてみたものの、ドーラはまだ考え込んでいるのか、あまり出てこようとはしなかった。
 ただ、いつかと違って、確実にいるのは感じる。授業を聞き流しているときにふと表面に出てきて、またすぐに引っ込んでしまったりはしている。だからフィユティーヌもそこまで心配はしていなかった。
 そうこうしているうちに授業は終わり、下校の時刻である。携帯端末を見ると、ダリアからのメッセージがぴかぴかと明滅しているのが見えた。
 『いつものディスカウントストアの看板前で待ってるよ』
 このままメッセージを無視してまっすぐ帰ることを考える。しかし、セーラとナタリーとショコラに責められる未来がなんとなく見えた。ドーラがあまり出てこようとしない現状、どう考えても直接自分が怒られる可能性が高い。それはうるさいし不快だし面倒だ。
 フィユティーヌは携帯端末をカバンの中に突っ込むと、いらだち紛れの大股でいつものディスカウントストアへ足を向けた。
 学校からバスで少し行ったところ、帰宅時間でざわつく街中のディスカウントストアの看板はペカっと浅薄に光っている。
 その前で携帯端末片手に人待ち顔で遠くを見ているダリアはもっと浅薄だ。バッグを肩にかけ、細身のダークカラーのパンツとストライプのカッターに細身のベルト。右から見ても左から見ても仕事帰りの姿だが、夕闇間際のような赤い髪のせいでその姿はなんのかんの目立っていた。ネオンの光で表情は微妙によく見えないが、絶対気障な顔をしているのだ。存在自体が面倒くさい。
 やがてその顔がこちらを向く。ダリアは一瞬目を丸くして、それからにっと笑ってこちらに歩いてきた。
 「よかった、来てくれたんだね。返事がないからどうしようかと思っていたところだったのだよ。」
 「……ふん。」
 「それじゃ、行くとしようか。」
 エスコートするように伸びてきたダリアの手をぺちんと払って、そのまま先へ進む。ダリアも少し肩をすくめると歩き出した。
 ディスカウントストアはだだっ広く、食料品やガーデニング用品、服飾品まで驚くほどに何でも手に入る。店内に入ると、白っぽい照明の中、まずお菓子の山が出迎え、先に進むと、ナッツの大袋が顔を出し、その奥が日配品やストック品だったはずだ。
 しかし、ダリアは入り口を通り過ぎ、そのまま行先を変えた。すたすたと先に行くダリアに、おい、と声をかける。
 「どこに行く気だ?」
 「買い物の前にちょっと付き合ってほしくてね。」
 首を傾げたままやがて到着したところは、その近所にあるアクセサリーショップだった。
 「どういうことだ?」
 「ん、せっかくフィユティーヌくんと一緒だからだよ。こういうの、好きだろう?」
 服飾系統に興味があることは知られていたらしい。ほぼドーラとしか顔を合わせないくせに。
 「それに私も用事があってね。まあ付き合いたまえ。」
返事も聞かずに店の奥へ入っていく。
 「……。」
4,5歩入ると、ダリアはくるりと振り返った。
 「フィユティーヌくん?」
 「……チッ。」 
 店舗前に棒立ちもできずに中に入る。中は、きらきらとかわいらしいアクセサリーが両側で揺れてきらめいていた。
 ダリアが留まっているのはイヤリングとピアスのコーナーだ。黒いリボンのイヤリング片手に首をかしげている。また誰かへのプレゼントだろうか。本当にマメなことだ。そう思っているとダリアがイヤリングを差し出してきた。
 「ああフィユティーヌくん、こういうのどうだろう。」
 「……知るか。」
 それでも、手に持ったアクセサリーには目が行ってしまう。イヤリングパーツの根本でゆれる、きゅっとしまった黒いベルベットのリボン。その下で控えめに揺れる小さな深紅の石。つくりはシンプルだが、そこまで子供っぽくはない。もう少しリボンのデザインとバランスがよければ使い道はあるだろう。
 「なるほど、お眼鏡には叶わなかったか」
 心を読まれたようで、眉をしかめて顔を背ける。すると、キラキラした小物の中に、何か気になる形のものがあった。
 直径1センチもない、小さな白いバラのイヤリングだ。透明感のある白い花びらの下には小さな銀色の葉と朝露を映したような色の雫石が揺れている。メシュレイアみたいだ、と思った。なんとなく。控えめなのに繊細に形が決まっているところとか。
 「フィユティーヌくん、これはどうだね?」
 我に返る前に目の前に見せられたのは、そのバラのイヤリング……の色違いだった。黒に近い深い紅のバラにアンティークゴールドの葉。そして小さく淡いゴールドパールの雫石。色の割にデザインもバランスもとれている。メシュレイアには合わない気がするが。
 「……いいんじゃな」
 言ってしまってから口を押える。
 「なるほど、こういうのが好きなのだね。内気なキミらしい。」
 「別にそういうわけじゃ……お前は一体何がしたいんだ?!」
 思わず声を荒げると、ダリアはし、と口元に手を当てた。
 「買い物だよ、もちろん。」
 片手に深紅のバラを持ったまま、ダリアはピアスのほうを眺め始める。見ているのはどうもシンプルなタイプらしく、前の代わりを探しているのは明らかだった。
 「おい。お前の」
 「フィユティーヌくん、これとこれとどちらがいいだろう。」
全て言い切る前に、ぽん、と出てきたのは、四ミリほどの青緑のキューブのピアスと、同じくらいのサイズのオレンジの丸玉ピアスで、フィユティーヌは反射的に眉をしかめた。
 「前のほうがマシだ。」
 「手厳しいな。それじゃ、キミならどういうのを選ぶんだね?」
 言われて反射的にあたりに目をさ迷わせた。もっとも、近くで揺れているドロップピアスだってダリアの持ってきたものよりはマシだと思う。数ミリの小ぶりな雫石が揺れているだけのシンプルなものだが、夕闇の涙のような紫のグラデーションは、たまたま目に入った割には悪くない色合いだ。
 無言でパッケージごと渡すと、ダリアは今度こそ目を見開いた。
 「なんだ」
 「いや……」
 まさか選んでくれるとは。なんかそんな言葉がもごもご聞こえて、はっと我に返った。思わず脛を蹴っ飛ばす。
 「痛っ!……いやいやいや、ありがとう。じゃあそれにするよ。」
 「別にいい!」
 「せっかく選んでもらったのだから、そんなこと言わないでくれたまえ。」
いなすように言ってそのまま店舗内店舗のレジに向かう。すぐ戻ってきたダリアは、さっきの深紅のバラと二つ買ったらしく、小袋を二つ摘まむように持ってきていた。片方はプレゼント用ではなかったのだろうか。
 「待たせたね。」
 言いながら、ダリアは小袋の片方を開けた。中に入っていたのは深紅のバラのイヤリングだ。
 「ちょっとじっとしていてくれたまえ。」
 言うと同時にきゅっと距離を詰められて、思わず息が止まった。動けないまま、体温すら感じそうな距離で、ぱち、ぱち、と耳に触れる感触がする。
 「うん。似合ってるじゃないか。」
 満足げに頷くダリアに、ぱあっと顔が赤くなるのが分かった。耳についたイヤリングを乱暴に外そうとすると、すっと手が止められる。
 「外す前に自分を見るといい。せっかく似合っているんだから。」
 促されるように店内の鏡に目をやると、深い色の服を着た自分が立っていた。耳元で揺れる赤いイヤリングはちょうどいいアクセントになっていて、……まあ、嫌いではない。
 手を下すと、ダリアはそれでいいんだと微笑む。そして、もう片方の小袋を開けると、手早くピアスを付け替えた。
 元のフープピアスは小袋に入れてバッグの中に、耳元にきらめくのはさっきの紫のドロップピアスだ。
 「うん、フィユティーヌくんのセンスは素敵だね」
 鏡を確認すると、耳元の雫石をゆらしてダリアは機嫌よく笑う。
 「ありがとう。キミの色に染まるのは悪くない。」
 時に黄昏色まで深くなる瞳が、柔らかくこちらを見る。
 「ふん、いちいちキザな奴だ」
 とらわれてしまいそうで、ふいっと顔を背ける。耳元で赤いバラがちりりと揺れる感触がした。
 「さて、買い物をしなくてはね。フィユティーヌくんもここで買うものがあったら買ってきたまえ。」
 「……」
 買うもの、と言われて、さっきの白いバラが頭をよぎった。頭の中で計算した財布の残額は問題ない。ただ、自分が渡すよりドーラが渡したほうがメシュレイアは喜ぶのではないか、とも思う。
 「白バラのイヤリング、気になってたんじゃないのか?」
 「やかましい。行くぞ。」
 ふい、と踵を返すと、ダリアの声が飛んできた。
 「メシュレイアくんはキミからのプレゼントは喜ぶと思うがね。」
 ぎょっとして振り返る。ダリアはさっきと同じ柔らかい瞳で微笑んだ。
 「そういう所は素直だね。」
 「……」
 「アクセサリーは一期一会だし、あのイヤリングはキミだから選べたのだよ。そうじゃないかね?」
 ドーラがメシュレイアにあれを選ぶかどうか、それはわからない。ただ、確かに今ここで見つけたのは自分だ。そう思うと少しだけ自信がわいてきて、……ダリアに乗せられているようでなんだかちょっと腹立たしい。
 無言でいると、ダリアはすっと白いバラのイヤリングを指さして、その指をレジに向けた。
 「わかったらさっさと買ってきたまえ。」
 「ボクに指図するな。」
 手に取ったのは白いバラ。それを手の中に大事に包むと、フィユティーヌは店舗内のレジに向かったのだった。



 遅く上がった丸い月の光が、部屋の窓から差し込んでいる。
 山のような食料品を抱え、重たい重たいとぶつぶつ言いながら、フィユティーヌとダリアが家に戻ってきたのは夕方近く。その後例によって料理に巻き込まれ、ダリア作の味は悪くないがシンプルな夕飯の後ようやく自室に戻ったフィユティーヌは、明かりもつけずにイヤリングを外そうとして手を止めた。そのままクローゼットを開き、前の休みに買ったばかりの帽子を被る。クローゼットの鏡に映るのは、月明りの差す中、上品なデザインの女優帽と、シックなバラのイヤリングを身に着けた姿。フィユティーヌはやがて、帽子をクローゼットにしまい、丁寧にイヤリングを外して月明りに透かした。深い色の向こうからかすかに透ける月の光は柔らかい。フィユティーヌは、月の光のように、ふ、と表情を和らげると、イヤリングをそっと小さな箱にしまい込んだ。どうやらとても機嫌がいいらしい。
 そして、ぱたんとベッドに倒れこむ。それと同時に意識が上層に浮上した。
 時間は21時。学校の課題があったっけ、とドーラはのそりと体を起こすと、部屋の明かりをつけてカーテンを閉める。
 フィユティーヌの機嫌は、重たい荷物を持たされた上にダリアの料理まで手伝わされた割にはずっと上向きだった。買ってきた白いバラのイヤリングは、メシュレイアにちゃんと渡せたし、先ほどしまい込んだ深紅のバラのイヤリングも何のかんので気に入っているらしい。
 白いバラのイヤリングを見たメシュレイアは、深紅の目を見開いてとても驚いて、そして心から喜んでいた。フィユティーヌのと色違いだ、と嬉しそうに身に着けた姿は、フィユティーヌが見立て通りとても似合っていた。フィユティーヌ自体はそっけない態度を崩さなかったが、喜んでいたのは間違いない。ショコラにいいなあと言われて、「お前はまず失くさないようにするところからだ」と普通に取り合っていたあたり、間違いなく機嫌はよかったはずだ。
 ダリアから貰ったイヤリング、深紅のバラはフィユティーヌが人形だったころに身に着けていたモチーフだった。フィユティーヌの服図案をダリアに見せたかどうかは覚えていないが、ダリアのことなので誰かからか聞いたのかもしれない。どのみちいいチョイスだったと思う。何せ、さっきまでフィユティーヌがイヤリング片手に微笑んでいたくらいだ。
 はあ、と息をつき、机のわきの棚から課題用のセットを引っ張り出す。ノートと教科書を開き、筆記具を取ろうとすると、筆立ての近くで緑に淡く光るものが見えた。
 ダリアのピアスだ。ダリアもダリアで、今日フィユティーヌが見繕ったピアスを自慢げに揺らして終始ご機嫌だった。ご機嫌どころか若干はしゃいでいたようにも見える。フィユティーヌから選んでもらったという事実が何かとても嬉しかったらしい。
 よくわからない輝きを放つ緑のピアス。何を考えているのかわからない輝きは相変わらず本人のようで、なんだか心がささくれ立つ。買い物に行ったついでのプレゼントだって……自分はそんなの初めて見た。そもそも二人でアクセサリーなど見ない。
 上機嫌のフィユティーヌとダリアをハタから眺める感じになって、なんだか自分がのけ者にされてるような気持になってくる。ダリアはフィユティーヌのほうがよかったのだろうか。睡眠薬と強制送還の状況証拠と言動からしたら、もしかしなくてもダリアは自分のことが邪魔だったのではないだろうか。
 一緒にモノづくりをするのは、ダリアだって楽しんでいたと思っていたのに、……それは自分の思い違いだったのだろうか。
 少しずつ気分が落ちていく。
 ドーラは引き出しからメモリスティックを引っ張り出すと、ピアスの片割れの隣に置いた。
 明日、ダリアがいないうちにデータを引き上げてピアスを返そう。そう決めたのだった。


 「あ、フィユティーヌ。おはよう。……あれ?ドーラお姉ちゃん。」
朝。階下のキッチンに降りると、真っ先に姿を認めたショコラは目を丸くした。
 「どうしたの、その恰好。」
本日のドーラの恰好は、淡い黒で膝丈のチュールワンピースだ。ウエストで切り替えて上半身がピシッとタイトな、フィユティーヌが好みそうなスタイル。ドーラ個人の意見としては、少し足がすーすーする。フィユティーヌはさわやかに目覚め、小箱にしまい込んだイヤリングを日に透かしてまたしまい込んだ後、着替えたり身支度をして、あとは朝食を食べて出ていくだけ、となったところで引いてしまったのだった。
「さっきまでフィユだったんだけど、ひっこんじゃってさ。」
 「ここ数日ずっとフィユティーヌだったから疲れたのかな。」
ふむー?と首をかしげるショコラにぱたぱたとドーラは手を振る。
 「いや、気まぐれじゃないかな。」
 「そんなもんなの?」
 「多分。」
 言いながらパンをトースターに放り込む。
 「あ、ドーラ様おはようございます!」
 「おはよ、メシュ。」
 起きてきたメシュレイアに、お茶の準備しようか、と声をかけていると、ほかの家族も次々にキッチンに入ってくる。
 あとから来たラヴィ達がバターや何かを準備していると、家主が伸びをしながらキッチンに入ってきた。耳元には昨日の紫のドロップピアスが揺れている。
 「おはよう。みんな早いね」
 「あなたが遅すぎるだけですわ。」
 ノータイムでツッコミを入れるのはナタリーだ。それをするっといなして、ダリアはこちらに目を止める。
 「おはよう、ドーラくん。」
 声をかけられた瞬間、思わず引いてしまった。
 引いたら意識は内側に返り、フィユティーヌが舌打ちとともに深く深くため息をつく。
 「ドーラなら引っ込んだぞ。」
ダリアは目を真ん丸にして、そして一度目を伏せると、ふ、と息をついた。
 「……おはようフィユティーヌくん。そんなに私に会いたかったのかね?うれしいじゃな」
 「ドーラが引っ込んだだけだ。ボクの意志じゃない。」
 「ドーラくんが?なんで」
 「お前が薬を盛ったりするからだろう。」
 キッチンがざわ、と引いた気配がした。
 「……ダリア、あなた私の妹に何してくれてるの?」
 「ダリア。それは犯罪ですよ!?」
 ダリアはまいったなというように顔を抑えると、また一つため息をついた。
 「そんな大した話じゃないんだが……気づいてたのか。」
 「気づかないと思っていたのか?あれからドーラはずっと考え込んでる。ボクは考えるだけ無駄だと思うけど。」
 場違いなくらい明るく、トースターがパンの焼き上がりを知らせる。フィユティーヌが無言でパン皿にトーストを入れると、ダリアはそのパン皿を手際よく引き取った。
 「なんだ。」
 「気づいてたならわかるだろう。私も同じものを飲んでたし、大した害はないと。」
 そういえば確かに、ダリアは自分が飲んでからこちらに飲ませていた。
 目がよくなるサプリメントだと偽って。
 「それは騙して睡眠薬を盛って他人の部屋に入った言い訳になるのか?」
 引きすぎて声も出ないナタリーとセーラの隣で、ショコラが首をかしげる。
 「スパイごっこでもしてたの?」
 「スパイごっこに本物のお薬は使っちゃだめですよ、ショコラさん。」
 ラヴィが言うと、ナタリーはふうっとため息をついた。
 「ラヴィ、問題はそこじゃありませんわよ。」
 本当なら完っ全に犯罪ですわ、とナタリーは吐き捨てる。
 「いや、この間の休みの日だろう?フィユティーヌくんがあんまり眠そうだったんで、ドーラくんにさっさと寝てもらっただけだよ」
 部屋に運んだのはサービスだ、とダリアは全く悪びれない。
 「ドーラくんのほうだって、どうせ言ったところで聞きやしないだろう。
  さあ、朝ごはんにしよう。朝の時間は貴重だからね。」
 促すように時計を指し、パン皿をどんとテーブルにセットする。平日の朝の時間は各人ともに忙しい。お茶が入ればいつもの朝が再開した。

 家を出るのは基本的にショコラが一番早い。そのあとはドーラが出ていき、残りの四人は大体同じくらいだ。だから、年長の四人は近くのバス停までは一緒に行っていることも多かった。
 朝のすがすがしい空気の中、いつものように歩くいつもの住宅街。だが、今日は少し冷たい空気が漂っている。
 「ダリア、あなた昨日の夕飯にまで何か混ぜたりしてませんわよね?」
 ナタリーが言うと、ダリアは軽く首を横に振った。
 「してないしてない。そんなことする理由もないだろう?
  大体睡眠薬って言ったって、ファーマシーで買える睡眠改善薬だよ。寝不足の身には堪えたようだがね。」
 「それで昼過ぎまで起きてこれなかったのね。」
 まさかあなたが原因だったなんて。セーラは冷たく冷たく吐き捨てる。
 「ダリア、お薬を渡すときにちゃんと説明するのは義務ですよ。」
 「それ以前に手段が間違ってますわ。」
 「そもそも前提がおかしいわね。」
 常になく、三人とも言葉がキツい。
 「寝不足のようだったからさっさと寝てもらった、それだけの話だろう。」
 心外な、とダリアが手を広げると、セーラは険しい表情でダリアを見上げた。
 「あなた全く反省してないのね。
  例えば私やラヴィが相手でもそういう手段に訴えるのかしら?」
 「……やるでしょうね。説明を省いて結果だけ押し付ける、しかも善意だけで。いかにもやりそうなことですわ。」
 前科がありますものね、とナタリーは冷たく言う。ラヴィはナタリーを見て、そしてダリアを見上げた。
 「ダリア。あなたの行動の理由は間違ってないかもしれません。
  でも、された方はそれしか道がないと解っていても、結構傷つくんですよ。
  もっと、ちゃんと説明してほしかったって。話してくれなかったのはなぜなのか、って。」
 思うところと記憶に引っかかったのか、ダリアはう、と言葉を止めた。
 「本当の理由も言われず薬盛られたって知ったら、正直怖いわよ。おまけにドーラたちの部屋に入ったって、あなた何がしたかったの?あなたが寝てるときはドーラだって部屋に来ないでしょう。」
 「寝てたから運んでやっただけだよ。そんなに大したことじゃ」
 「ダリア、自分が同じことされたらって考えたことありますか?
  知らないうちに薬を飲まされて、気が付いたら記憶と違うところにいたら、ダリアならどう思います?」
 ラヴィが言うと、ダリアは口をつぐむ。
 「ドーラに言ったところで聞きはしないかもしれないけどね、それは説明を省いていい理由にはならないわ。
  さっさと寝ろって言ってから睡眠薬口の中に放り込んでやる方がまだマシよ。」
 「セーラも結構言いますのね。」
 あきれ半分のナタリーにセーラは肩をすくめた。
 「ドーラに言ったところで聞かないとは思うもの。」
 「そのあたりは意見が一致しているようだ。」
 ダリアが言うと、セーラはぎろりとダリアをにらみつけた。
 「ちゃんとドーラに説明して謝りなさい。人としての義務よ。じゃないとあの子ずっと考えこんじゃうし、その間中避けられるわ。それもわかりにくく。」
 わかりにくく、というところに思い当たる節があったのか、ダリアの表情が一瞬変わる。
 「……わかったよ。」
 ダリアは額を抑えると、深々とため息をついて頷いたのだった。


 家に戻ったドーラは自室に直行し、用意していたメモリスティックとピアスの片割れを握りしめてダリアの部屋に行った。
 ドーラの部屋にもパソコンはある。用途は遊びに使っている以外は、学校の課題や調べもの。小さめのプログラムならこちらでも組める。ダリアの部屋を使っていたのは、マシンパワーがあるパソコンがあるから、というのと、そこに自室より恵まれた環境があったからである。お高い3Dソフトやツールの充実した開発環境が。
 今は自室だ。ダリアの部屋からデータを引きあげ、ピアスの片割れをダリアのデスクに置いて、また部屋に戻ってきたところだった。
 プロジェクトの最初からダリアの部屋でやっていたため、こちらのパソコンには環境が足りていない。まずはそこからか、とドーラは一つ伸びをした。
 そして一つ一つの作業環境を作り上げていく。フォルダ内のメモを参照しながら環境設定をしていると、ふと見慣れないフォルダが目に入った。更新日は……一昨日だ。なんだろう、と開けてみると、中身は先日作り上げた分の訂正表だった。ダリアはどうやらそこまで見てくれていたらしい。フォルダの中にはご丁寧にその続きまで書いてある。

 『この方向性なら、この機能があると便利じゃないか?』
 『その記述に関しては、こっちがスマートだと思うがね』
 『ところでドーラくん、いいことを思いついたんだが』

 ファイルを眺めているだけでも伝わってくるようだ。隣で作業していた時、そばで聞こえていた声、言葉、息遣い。それがなんだか居心地が悪くて、ウインドウをべちんと消した。そのついでにベッドに転がる。もやもやを抱えたままゴロゴロ転がって目を閉じると、いつしか意識は入れ替わる。
 フィユティーヌが体を起こすと、窓の外は夕暮れ時になっていた。階下ではラヴィたちの声がする。料理をしているのだろう、なかなか賑やかだ。フィユティーヌはさっきまで見ていたパソコンを一瞥すると、電源を落とすでもなく、ふい、と階下に降りて行ったのだった。


 ドーラはわかりにくく考え込むし考えている間中避けられる。
 朝セーラが言っていたことをダリアが理解したのは、その日の夜、自室のパソコンをつけた時だった。
 画面にあったはずの、ドーラが扱っていたデータフォルダがすべて消されていた。履歴もバックアップも何もかも、だ。やれるのは当の本人だろう。ダリアが帰る前にデータを引き上げたのは自明だ。
 夕食時はフィユティーヌだったし、心なしかフィユティーヌの機嫌がよさそうだったので完全に油断していた。
 空っぽどころか跡形もないデータフォルダ。昨日は気が乗らなくてそのまま寝てしまったから、最後に触ったのは一昨日だったか。ドーラ作のプログラムを見て訂正だの追加だのつけていたときは、この状態は想像していなかった。
 自分のパソコンのほうにバックアップがあった気もする。とりあえず確かめるか、と目をやると、部品用の小さなトレイが定位置から外れた机の上に置いてあるのが見えた。そばに寄って確認すると、中に転がっているのは、失くしたはずのピアスの片割れだ。
 ……ドーラを運んだ時、部屋に落としていたのだろう。多分。それで部屋に入ったのを知ったらしい。
 しかし、消えたデータと戻ってきたピアス。ここのところドーラを見ていなかった事と、ここまでの時間差があった分謎のダメージを感じた。以前なら、いや普段なら、そういう気分だったのか、と、さらっと流して次の瞬間忘れるくらい造作もないことなのに、今自分の心にあるのは間違いなく焦りだ。
 ドーラは多分、薬を飲ませたあの日から、フィユティーヌが言っていた通りずっと考えていたのだ。だが今、データが消えてピアスが戻ってきたということは、つまり考え終わったということではないだろうか。悪い方向に。
 軽い人助けのつもりだったのに、事態は思ったより拗れていたらしい。手段に関しても早々に決着する方法を選んだだけなのだが、さすがのダリアも今回に関しては選択ミスという言葉が頭をよぎっていた。
 『ちゃんとドーラに説明して謝りなさい。人としての義務よ。』
 セーラの言葉が頭をよぎる。この事態を収拾する方法はもうそれしかないようだった。何といったものか考えながら、ダリアは部屋のドアを開ける。普段ならもう少しスムーズに解を叩き出す頭は、今に限って全くいい考えを出そうとしない。廊下の向こう、ドーラの部屋はどうやらまだ明かりがついているようだった。
 ノックをしようとして、一つ止まる。今、フィユティーヌでいる可能性はないか。大いにある。そのまま避けられたらどうすればよいのだろうか。話せばわかってくれるのだろうか。
 だが、普段そんなことを考えたりしただろうか。多分していない。自分の用事があるのは基本ドーラだったからだ。
 「ドーラくん、起きてるかね?今いいかい?」
 部屋の中でごそ、と動く音がした。やがて、かすかにスリッパの足音がぱた、と歩いてくる。
 「……時間を考えろ。」
 ドアを開けて出てきたのはすでに寝間着姿のフィユティーヌだった。
 「フィユティーヌくんだったか。それは失礼したね。」
 「別に……全く手間のかかる」
 フィユティーヌはすっと目を伏せる。そして一秒。ドーラの琥珀の瞳が焦った色で思い切り見開かれた。どうやらフィユティーヌが勝手に引っ込んだらしい。
 「ドーラくん。ちょっと話があるんだが。」
 「……ボクにはないよ。」
 ふい、と部屋に戻ろうとするその手をぎゅっと?まえる。
 「せめて謝らせてくれないか。」
 「……謝ること?あるの?」
 警戒と不信感を前面に出した表情に、手遅れの香りを感じて一瞬言葉に詰まる。だが、まだ手遅れと決まったわけではない。
 「嘘をついて薬を飲ませた件については謝る。悪かった。」
 「朝までは反省のかけらもなかったくせに」
 ほうり捨てるような言葉にもめげず、ダリアは頭を下げた。
 「『自分がされたら』という観点が完全に抜けていたことに気づいた。すまなかった。」
 「……そう。わかった。」
 ドーラは居心地悪そうに手をほどこうとする。しかし今手を離したらきっとそのまま追い出されて終了だ。離すわけにはいかない。
 「あと、ピアス届けてくれてありがとう。」
 「別に、落ちてたから拾っただけ。……用事はそれだけ?」
 もう帰って、という感情を前面に出して、ドーラは身を引こうとする。
 「データ、そっちに引き上げたんだろう?もうこちらはお役御免かね?」
 問うと、手の抵抗が止まる。ドーラは明らかに泣きそうな顔でこちらを見た。だがそれは一秒ももたず、ふいっと目線はそらされる。
 「……うん。」
 返事はとてもそっけなかった。
 「私の担当分は?」
 「もういい。」
 「環境は間に合っているのか?」
 畳みかけるように聞くと、ぎりっとした視線がこちらを見上げる。
 「何が言いたいの?」
 「関わったからには、最高の形で完成させたいだろう?」
 言うと、琥珀の瞳ははっとしたように見開いて、そして薄く伏せられた。
 「……協力には感謝してる。でももういいんだ。」
 瞳はゆらゆら揺れて、心の動揺を隠せていない。本音はきっとその奥だろう。
 「なぜだ?モノづくりに関してはあらゆる手段で際限なく完成度を求めるのがキミだろう?」
 問いへの答えはない。
 「それより優先することがあるのか?」
 ドーラは、小さくかぶりを振った。
 「でも……キミがいなくても最高のものは作れる。」
 だからもういい。そう、頑強に繰り返す。
 お前は必要ない、と言われているような気がした。薬を飲ませたことで完全に信用を失った可能性がよぎる。ドーラはそれくらい気にしないと勝手に思っていたが、思っていた以上に彼女は繊細だったらしい。
 「なんでそこまで私を排除したいんだね?」
 もしもそうなら、もう一度全部説明して謝ろう。そう覚悟を決める。
 「排除したいのはキミだろう?」
 しかし、返ってきたのは意外な返答だった。
 そんな気は全くない。全くないのになぜそうなってしまったのだ。唖然とするダリアを見上げ、ドーラは泣きそうな顔で言葉を続ける。
 「ボクが邪魔だったから、キミはボクに薬を飲ませてまで部屋に戻したんだよね?嘘までついてさ。」
 「そんなことは」
 「そんなに邪魔ならそう言ってくれればよかったのに。フィユのほうがいいなら、そう言ってくれればよかったのに!」
 「待ちたまえ、それは誤解だ!」
 声を荒げたドーラにかぶせるように声が出た。思った以上の大声に、自分で驚いて口をつぐむ。
 「……説明する。今更だが、廊下は声が響く。部屋に入っていいかね?」
 声を落とすが、ドーラは首を振った。
 「ダメだ。ここはボクの部屋だけど、フィユの部屋でもある。」
 ドーラは思ったよりフィユティーヌのことを尊重していたらしい。全く考えていないと思っていただけに、妙な感動を覚える。
 「わかった。それなら私の部屋に来たまえ。」
 「……」
 こくり、と頷いたドーラの手をひいて自室に戻る。ドアを閉めて、つかみっぱなしだった手を離すと、いつもの机のいつもの椅子の定位置に、ドーラはぽてん、と腰かけた。
 「……まず、土曜日私たちがとても夜更かししたのは覚えているね?」
 「……」
 沈黙は肯定だ。ダリアはそのまま先を続ける。
 「日曜はそのせいでフィユティーヌくんは随分眠そうにしていた。キミは知らなかったと思うが、途中で寝落ちしていたときに、目の下にうっすら隈まで見えていた。それで私も少し反省したのだよ。だからその日の夜はちゃんと寝かせよう、と考えた。」
 「それと薬にどう関係があるの?」
 声は低く、まだ怒りを孕んでいる。
 「キミは、研究がうまく進んでいる時期に、今日は早く寝ろ、と言っておとなしく寝るかね?無理だろう?」
 私も無理だ。そう言いおいて先を続ける。
 「睡眠薬があるから飲め、なんていったって、絶対に飲まないはずだ。
  だからそうした。寝不足の身体には若干効きすぎたようだが、よく眠れたんじゃないのか?」
 ドーラは沈黙する。しかし、ややあって冷たくダリアをにらんだ。
 「どうせ聞きはしない、って、キミはいうけど、そんなの試してみなきゃわからないでしょ。薬盛る前にやれることあったんじゃない?」
 「どれだけ付き合い長いと思ってるんだ。試すまでもないだろう。」
 そっちが手っ取り早い、というと、ドーラの纏う空気が剣呑になる。
 「時間の無駄ってこと?なんで勝手に決めつけるの?どうしてそのまま突っ走ったの?ボク、キミが何考えてるんだろうってめちゃくちゃ怖かったんだよ!?」
 一息に言ってギッとにらむ。
 「キミはいつだって何も説明しないで最短距離の結論だけ押し付けようとする!知った顔で他人の都合も気持ちも全部無視してさ!」
 「だが」
 「ダリアのそういうとこ大っ嫌い!」
 いつになく荒い声と大嫌い、の言葉が心臓に突き刺さった。その言葉は全く想像していなかった。今まで色々な人から言われた気がするが、ドーラから言われるのは正直キツい。……ある程度懐かれていたと思っていただけに。
 呆然としているうちに、がた、と音がして我に返った。目線の先にはさっさと立ち上がろうとするドーラ。
 「待ってくれ!」
 慌てて手を引いて引き留める。
 「これ以上話すことなんて」
 「私にはあ」
 「ボクにはない!」
 手を振りほどこうとするのをぎゅっと握りしめる。
 「なんなの!?」
 「悪かった。
  強引な手段を使ったのも説明不足だったことも謝る。
  何より、キミを酷く傷つけてしまった。本当に悪かった。」
 じっと頭を下げると、抵抗がやむ。
 「ただ、私は決してキミを邪魔だなんて思っていない。それだけは信じてほしい。」
 沈黙が落ちる。ちらりと様子をうかがうとドーラはこちらから視線をそらしていた。でも、その雰囲気は、最初より少し落ち着いて、穏やかになっている。
 「……なんで、キミはいつも説明を省こうとするの?ボクなんかには理解できないとでも思ってるの?」
 言われて、ダリアは顔を上げる。
 「それは……。」
 長年の習い性だという自覚はほんのりあった。
 一から十まで説明して、よくわからない、と言われることを繰り返して、説明はともかく結果だけを渡すことに慣れてしまった。そして、周囲もそれを是とした。説明は双方にとって面倒なのだ。
 ただ、ドーラは、そういえばいつだって理由や仕組みを聞いてきた。ただ、ちょいちょいはぐらかしたりしていたらいつの間にか……そういえば聞かれなくなっていたなと思い出す。諦めていたのだろうか。
 「……癖みたいなものかな。」
 素直につぶやくと、ドーラは明らかに嫌そうな顔をした。
 「癖で済ませないでくれる?」
 「ほかに言いようがないからな。
  それに、あの時はとりあえず寝かせないと、ということに集中していたし。」
 自分の中では理にかなっているが、ドーラはため息をついた。
 「あのねダリア。最悪飲ませた後、ボクが寝てしまう前に説明することはできたよね?
  早く寝るべきだ、って、その日のうちに言えばよかったのに。そうしなかったのはなぜ?」
 「なぜって……」
 なぜと言われても困る。言われるまで、そんなことは全く考えていなかった。発想に全くなかった。
 キラキラした顔でものづくりを楽しんでいるドーラに、早く寝ろ、と言いにくかったというのはある。でも、その程度の理由なら別に自分は躊躇しないだろう。……ただ。
 一つの可能性を思いつき、ダリアは思わず目を伏せた。
 自分の感情を冷静にトレスした結論は、なんとも子供っぽくてかっこ悪い。それでも、正直に言わないと、ドーラはきっと納得しないし、戻ってこないというのも見えていた。
 「……モノづくりをしているときに、それ以外の言葉は邪魔だと思わないかね。」
 「必要最低限は言うべきだよ。」
 冷たく入った言葉に、婉曲表現はダメなのだと理解する。だが、そのまま言うのは何か気まずいというか、……恥ずかしい。
 一呼吸おくと、ダリアは覚悟を決めて顔を上げた。
 「キミがここにいる時を切り上げるのに抵抗があった。もう寝ろ、なんてつまらないことを言ってキミを追い出したくなかった。」
 邪魔に思われてる、なんて一秒だって感じてほしくなかった。結果は見事に裏目に出たのだが。
 「私だって、一緒にモノ作りしている時間は楽しいのだからね。」
 ドーラが直視できなくて、ふいと目をそらす。そこで沈黙がおちた。
 ちら、と様子をうかがうと、あきれたような、拗ねたような表情が見える。
 ややあって、ドーラはまた呆れたように息をついた。
 「……子どもじゃないんだからさ。」
 「キミだって大して変わらないだろう。」
 目を合わせないまま、息をつく。ちら、と様子をうかがうと、困ったような、それでもまだ怒っているような瞳のドーラと目が合った。ドーラはふ、と目を伏せ、それからこちらの目をまっすぐに見つめる。ただ、その瞳は常になく真剣で、思わずダリアは居住まいをただした。
 「ダリア。
  どんな理由があっても、薬を騙して飲ませるなんて二度としないで。結論を急ぐ前に、ちゃんと説明して。」
 ドーラの瞳は、途中から泣きそうな色でゆれていた。
 「……物凄く怖かったんだから。」
 多分、キミが想像する以上に。その声には、まだ消えていない感情の震えが乗っている。
 彼女のプライドも心も自分の想像以上に、相当傷つけたのだろうことは明らかだった。
 「……わかった。悪かった。」
 目を伏せ、じっと頭を下げる。
 「もうしません、は?」
 上からドーラの声が降ってきて、思わず力がぬけた。
 「わかったよ。……もうしません。」
 頭を上げると、ドーラは困ったような、それでもまだ真剣な顔でこちらを見ている。
 「……ちゃんと守ってよ。」
 「了解だ。」
 真剣に、慎重に、それだけ言うと、ドーラはようやく表情をやわらげたのだった。


 結局、共同開発状態だったデータはダリアの部屋に戻ってきた。
 ドーラも夜ごとダリアの部屋に作業に来るのは変わらない。
 ただ、少しだけ変わったことがある。


 あの後。
 「ダリアのせいで二度手間だよ。」
 データを戻し、環境を整えなおしながら、ドーラがぼやく。ただ、その声はどこか楽しそうでもあって、ようやく機嫌が直ったのを感じさせる響きだ。ダリアはそれを確認しながら、そうだな、と肩をすくめる。
 「薬を盛ったのは反省してるがね、キミに全く問題がないわけじゃないだろう。」
 「問題?」
 「夜更かしさせた私が言うのもなんだが、キミの身体はキミだけのものじゃない。寝不足の身体をフィユティーヌくんに押し付けるのはやめたまえ。いくら何でも気の毒だ。」
 「……それは……そうだけどさ」
 不服そうな表情に、ドーラにしては珍しい色が見える。
 そういえば、さっきドーラは、フィユのほうが大事なのか、と口走っていた。
 自分といる時はドーラが出てきがちなのと、夜ごと部屋に作業に来ること。普段の行動とさっきの言葉を鑑みると、なんとなくだが、少しはうぬぼれてもいいような気がしなくもない。
 ……自分との時間を、ドーラも楽しんでいたのだと。
 それならきっと、今なら話を聞いてもらえる気がしていた。あの日強硬手段で押し切って省いた、少しのおせっかいの理由を。
 「私はキミもフィユティーヌくんも大事な家族だと思ってる。別にどちらが大事、なんてそんなバカバカしいことは考えてない。
  どっちも健康でいてほしいし各々幸せであってほしい。
  でも、それを可能にするのはキミたちの行動だ。私の手の及ぶ範囲じゃない。」
 ドーラは少し不貞腐れ気味だが、落ち着いて聞いているようだ。ダリアはそれを確認してから、ふ、と息をついた。
 「ただ、モノづくりに付き合ってくれるのは歓迎したい。似た趣味を持つ朋友として。
  ……キミがいないと調子も出ないからね。」
 ぴこん、と耳を立てるように、ドーラがこちらを向く。
 「だから、自分たちで加減してお互いに折り合いをつけてくれたまえ。
  私は結局強引な手段以外では手出しできないし、あまり加減もできないからね。」
 ドーラはややあって、こくり、とうなづいた。
 「……少し努力してみる。」
 「頼んだよ。」
 この時間を大事にしたいんだ。
 そう言うと、ドーラは分かった、と素直に頷いた。
 心おきなくモノづくりを楽しむために。


 それから。
 休みの前の日は、2回に1回くらいドーラが作業に来ない日ができた。
 調子に乗って夜更かしした日の翌日は、夜更かしした方が表に出ている。
 それに伴い、フィユティーヌが出てくる頻度も少しだけ増えた。
 そのせいだろうか。
 フィユティーヌは、人見知りは相変わらずだが、少しずつ優しい顔をすることが増えた。


 深紅のバラのイヤリングをつけて、黒のスラウチ・ハットを被り、お出かけ用のバッグを肩にかける。
 服はいつかのフリルとレースとチュールのワンピース。クローゼットの鏡でくるりと全体を確認すれば準備は終了で、寝不足でない週末を迎えたフィユティーヌはそれなりに機嫌がよかった。
 「フィユティーヌさん、準備できましたか?」
 「ああ。」
 部屋の外からメシュレイアの声がして、フィユティーヌは扉をあける。
 明るい朝の空気の中に立つメシュレイアは、ところどころ刺繍の入った上品な桃色のワンピースに、少し前に贈った白いバラのイヤリングを付けていた。
 「……似合ってる」
 こぼれたつぶやきは、メシュレイアの耳に届いてしまっていたらしい。
 「フィユティーヌさんも」
 嬉しそうなメシュレイアにちょっと気まずくて目をそらすと、バタバタとショコラが走ってきた。
 肩から小さなバッグをかけたショコラも少しだけお出掛け服だ。淡く薄い黄色のブラウスに夏空色のジャンパースカート。その下からふんわりとフリルのついたペチコートがのぞいている。白いレースのリボンで留めた髪は走るごとにぴょこぴょこ動いていた。 
 「電車間に合わなくなっちゃうよー!」
 格好にそぐわない勢いの声に、フィユティーヌはため息をつく。
 「結構何本も出てるんだろう?」
 「早く着いた方が遊べるじゃん!」
 きっぱりしたショコラに、メシュレイアは笑って頷く。
 「まあ、それはそうですね。皆さん準備できたみたいですし、行きましょうか。」
 「おー!」
 元気いっぱいに駆けていくショコラの後姿を眺めて、フィユティーヌは小さく肩をすくめる。
 今日は少し遠出をすることになっていた。
 イベントのチケットをダリアが持ってきたのだ。せっかくだし!と同居人たちは言うが、何がせっかくなのかはよくわからない。
 ただ、このよくわからないが浮き立つ気持ちは少し新鮮だった。

 悪くない、とフィユティーヌは思う。
 その表情は、耳元のバラのようにほころんでいたのだった。


ライナスの帽子の続き。
前の話の時はフィユをメインで、と思ったのですが、薬を盛った事後処理やフィユティーヌの日常とかお買い物とか姉妹以外と喋ってるのとか、ダリアさんの悪い癖とか色々詰め込んだ続きが勝手に出来てました。書きたいの詰め込んだおかげですごく長い。
フィユティーヌもちょっとずついい顔するようになってくれるといいなあと思っています。
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