ぼんやりした頭に重い身体、まだ起きるべき時間ではないと主張する瞼の上から叩きつけるように照らす朝の光。
もう一度寝よう、と自然に身体の力を抜くが、意識は変なところで引っかかって眠れない。
フィユティーヌが渋々目を開くと、壁に掛かった時計が目に入った。昨日の夜にベッドに入ってからまだ5時間も経っていない。この感じは多分眠りが浅かったのだろう。
と言っても眠いには変わらない。ぼんやりしたままころりと寝返りを打つ。……と、そのままベッドの縁からバランスを崩して転がり落ちた。
「痛っ……!」
自分が床に落ちる、どん、という音と相応の衝撃で、今度こそ目が覚めた。
痛む身体を引きずり起こして、ベッドの上と、その向こうの朝日の差す窓を睨みつける。太陽はカーテン越しでもわかる位しっかり顔を出していて、朝の訪れをこれでもかと主張していたが、今はその明るさが恨めしい。まだ夜中の三時くらいであるべきなのだ。昨日ベッドに入った時には既に三時を越えていたが。
思い出すとなんだか腹が立ってきた。全ては昨日派手に夜更かしして朝だけ自分に押し付けたドーラのせいだ。絶対そうだ。そういうことにして、フィユティーヌは苛立ちを原動力にするように立ち上がったのだった。
フィユティーヌがキッチンに向かうと、そこからは既に食事の支度をする音がきこえてきていた。
「おはようございます、フィユティーヌさん。」
中に入ると、キッチンで朝食の準備をしていたメシュレイアはふわっと顔を上げて微笑む。
「メシュレイア。……おは、よう。」
「おはようございます!可愛い服ですね。ひらひらですっごく綺麗。」
似合ってますよ、とメシュレイアが嬉しそうにいう今日の服は、意趣返しも込めて手持ちの中で一番レースとフリルが多いものにしていた。
「……ふん」
ぷい、と顔を背け、近くにあったオーブントースターにパンを放り込んでタイマーをセットする。
「おはようございます、フィユティーヌさん。朝食の準備してくださってるんですか?」
後から声をかけられて思わず振り向くと、ラヴィがこちらを見ていた。髪を緩く一つにまとめ、服もルームウェアに近い緩い恰好だ。そう言えば今日は休日だった。
「別に、ついでだ。」
ため息をついて見せるつもりが、ふわわ、とあくびになる。
「ふふ、ありがとうございます。
でもフィユティーヌさん、随分眠そうですね。」
「……」
その通りすぎて口をつぐむと、ラヴィの向こうからひょこっとナタリーが顔を出した。こちらは性格なのだろうか幾分きっちりした格好だ。
「おはようございます、二人とも。フィユティーヌは昨日また夜更かししていたんじゃありませんこと?」
ナタリーはそう言ってこちら側に歩を進める。
「ボクじゃない。」
「なるほど、ドーラですの。全く仕方ありませんわね。」
貴女も災難ですわね、というナタリーに、むう、と口をとがらせる。
実際寝不足の身体を押し付けられたのは事実だ。その上これが初めてではなかった。フィユティーヌが朝起きる時は、大体前の夜はドーラが夜更かししている。だが、他人から言われるのは少し抵抗があるのもまた事実だ。
「お前に何がわかる。」
「貴女が眠くて仕方ないってことは分かりますわね。」
ナタリーは困ったように微笑むと、小さく肩をすくめて、そのまま朝のお茶を淹れにいってしまった。
「今日はあまり無理しないでくださいね。眠いと感覚が鈍くなってしまいますから。」
ラヴィもそう言って、ナタリーの方を追いかける。
「ふん、勝手な事を。」
言う傍からあくびが漏れた。
「おはよーフィユティーヌ。眠そうだねー。ショコラも眠ーい。」
ふわふわと伸びをしながらルームウェア姿のショコラがこちらに来る。
「……お前とは事情が違う」
「なーに、またドーラお姉ちゃんが夜更かししてたの?」
そのまますぎて言葉もない。黙り込むと、ショコラはぽてぽてとこちらに歩み寄り、じっとこちらを見上げた。
「なんだ」
少し気圧されて一歩下がるが、ショコラはその分前に詰めてくる。
「フィユティーヌ。朝の挨拶は?」
くだらない。そう思って目を背けるが、ショコラはそちらの方にきゅっと回り込んできた。
ばち、と目が合うと、すかさずショコラが言葉をつむぐ。
「お・は・よ・う」
リピートアフタミー、の表情に、フィユティーヌは少し逡巡して……結局視線に負けた。
「……おはよう」
「よくできました。」
視線から解放される。ショコラは、今日のご飯何かなーと言いながら、メシュレイアの方に行ってしまった。
はあ、と息をつく。耳元でチン、と景気よくパンが焼ける音がした。
二時間後。フィユティーヌはなぜか街の真ん中を歩いていた。
フィラデルフィアの中心街はいつでもにぎやかだ。立ち並ぶファッションビルの脇をすり抜ければ個人経営のお店もまだ残っていて、歩いて楽しむのにちょうどいい……とメシュレイアたちは言う。
フィユティーヌはそこでメシュレイアとショコラに引きずられるように服屋と雑貨店と小間物屋を行脚していた。キラキラとカラフルで、勝手に浮き立っているショーウィンドウが若干目に眩しい。
「私は、あっちのお店でこの間見た麦わら帽子が可愛いなあって思ったんですよね。」
「あ、もしかしてショーケースにあった奴?ショコラもあれ好き!」
「趣味じゃない。」
二人には似合うかもしれないが、なんてふと思うのはきっと眠気のせいだろう。
「そんなこと言わずに行きましょう。」
「れっつごー!」
なんでこうなったのだろう。きっと全部ドーラのせいだ。
「一度寝なおしたほうがいいんじゃないですか?」
朝食後。ふらふらしていたフィユティーヌにそう言ったのはラヴィだった。
「寝ない。」
寝てしまうと、夜眠気の飛んだドーラがまた夜更かししてしまう可能性がある。それだけは避けなくてはならない。
だから、寝る代わりに、ダリアがするように濃いめにコーヒーを淹れた。
コーヒーの匂いはよかった。だが口を付けると死ぬほど苦くてまずくてすっぱくて全く美味しくなかった。こんなもの飲んでる奴の頭はおかしいと断言できる出来だった。
それでも目が覚めるかと言われるとまあ醒めなくもない。それで、渋い顔でコーヒーを飲んでいたら、メシュレイアがやってきたのだ。
「フィユティーヌさん、お出かけしませんか?帽子か日傘、買いに行きましょう。その格好だと頭がちょっと寂しいなって思って。」
密かなお気に入りの深い色のワンピースは、チュールとレースとフリルをふんだんに使ったもので、ドーラは絶対に着ないため、意趣返しに選んだ、つもりだった。それが裏目に出たらしい。
「お出かけしたら眠くならないでしょう?」
結局メシュレイアに引きずり出され、ショコラもそれにくっついてきて、三人でショッピングとなったのである。
半分寝たようにぼーっとしているうちに、フィユティーヌは色とりどりの帽子が並ぶショーケースの前に立っていた。
「明るい色がいいと思うな、そろそろ夏だし。」
「フィユティーヌさんは落ち着いた色の方が好きですか?その格好だったらシックなのが似合うかもしれませんね。」
気が付くとショコラもメシュレイアも各々手に帽子を持っている。
帽子。その響きだけでなんだか複雑な気持ちになった。帽子はあの世界の象徴のようなもので……そう言えば彼女らは帽子をずっと持たなかったな、と思い出す。
ぼんやりと視線を移していくと、店の奥に何か既視感のあるものが見えた気がした。惹かれるようにそこに行くと、つば広で大き目のシルエットの帽子が並んでいる。
ゆるくつばの広がるスラウチ・ハット。
なんとなく手に取ると、短いながらも帽子を持っていた頃のことが思い返された。
自分の帽子は、ここに並ぶもののように華奢ではなかった。ただ、焦がれて手に入れた大事な半身だった。
手に取ったのは黒いレースとオーガンジーがあしらわれた華奢で涼し気なもので、あまり自分の帽子との共通点はないが、クラウンが少し角ばってる感じが似ているかな、なんて思う。ちょっと被ってみると、意外としっくり合った。なんだか浮気をしているようで居心地が悪いが、……あの帽子を被ることはもう二度とないし、そろそろ夏なのは確かだ。
「フィユティーヌさん。それ似合ってますよ。」
「今の服にもちょうどいいんじゃない?」
声をかけられてぎょっとして振り返る。
「……いたのか」
「ショコラはもうちょっと明るい方が好きだけど。本人が気に入ってるのが一番だもんね。」
うんうん、と頷いてるショコラの横で、そうですよね、とメシュレイアも微笑んでいる。
「夏になったら明るいのも見て欲しいです。私、フィユティーヌさんが明るい色の服着てるの好きなんですよ。」
「……考えておく」
言うと、メシュレイアは目を見開いて、花の咲くような笑顔で頷いたのだった。
昼下がり。三人で帰宅すると、家人は皆出かけていたらしい。メシュレイア達も荷物を置こうとそれぞれの部屋に引き上げていく。
結局あの後マーケットで昼を食べて、他の店も回る羽目になった。とにもかくにも疲れたし眠い。自室に戻るのも億劫で、リビングのソファに荷物を放り投げ、買ってきた帽子を引っ張り出す。
帽子を頭にのせても力がみなぎるとかそう言う事は一切ないが、新しい帽子はあの帽子の次位にはしっくりと馴染んだ。
「……」
もう二度と被ることのない相棒の名前を呟いて、帽子をそっと抱きしめる。
目を閉じるとあの日々がふっと浮かび上がった。
あの世界の記憶は、絶望と苦しみと孤独と闇に閉ざされている。それでも、帽子を得たときは、なぜだか自分は一人ではないと思えた。いびつに組み合わされ、帽子としてはキメラのような状態だったとしても、半身は半身で、自分にとって唯一の相棒だったのだ。
「……」
もう一度その名を呼ぶ。
目を閉じた先の闇の夢はどこか優しく暖かい。揺籠の中でまどろむ様に、フィユティーヌは何時しか意識を手放したのだった。
ダリアがリビングに入った時、真っ先に目に入ったのは、昼下がりの陽だまりの中で黒いレースとフリルの塊がソファの上に転がっている光景だった。
その隣でメシュレイアがのんびりと雑誌を眺めている。
「やあメシュレイアくん。」
「あ、ダリア様。」
静かに、というジェスチャーにこくりと頷く。よく見ればチュールとレースとフリルの塊はフィユティーヌだった。
「フィユティーヌくんは寝てるのか。」
帽子を抱きしめ、丸まって寝ている姿はリアルなビスク人形のようだ。……身体はドーラなのだが。
「寝不足みたいで。……昨日、ドーラ様何時にお休みになったか覚えてます?」
「間違いなく3時は超えていたはずだね。それは悪いことをしたな。」
空いた場所に座ると、メシュレイアは困ったようにフィユティーヌの方を見た。
「もうちょっとしたら起こすつもりですけど、なんだか忍びないですね。」
「だがここで寝すぎると同じことの繰り返しだからな。……その帽子は新しいものなのかな?」
フィユティーヌの抱きしめている帽子に目線をやると、メシュレイアはそうなんですよ、と頷いた。
「今日買ってきたんです。」
「へえ、とても雰囲気に合ってるな。」
感心していると、メシュレイアは少しまぶしいような表情で目を細めた。
「……フィユティーヌさんが前に被っていた『帽子』に印象が似てるんですよね。」
「なるほど、彼女の帽子はこんな風だったのか。」
見た事のないフィユティーヌの帽子はきっと相当エレガントだったのだろう。
「フィユティーヌさん、『帽子』を得た時に、悲しみと苦しみの帽子、みたいな言い方をされてたんですよね。まだその時の感情に引きずられているのでしょうか。」
メシュレイアは少し寂しそうにつぶやく。ダリアはつ、と首を横に振った。
「それはないだろう。管理人にとっては帽子は半身、自分に一番近い相棒だ。どんな帽子であっても、自分が何より望んだものなのだからね。
この帽子がもし前の『帽子』に似ていて、フィユティーヌくんが抱きしめて寝てしまうくらいなら、彼女が帽子に抱いている感情は、郷愁とか安心感とかそっち側だと思うよ。」
「そう、ですか。」
少し安心したらしいメシュレイアにああ、と頷く。
自分にも似た帽子を探してしまう気持ちは理解できる。だが、それを抱きしめるには、少し長く付き合いすぎてしまったな、と言うのが個人的な実感だった。
帽子が管理人を食うところは何度も見た。自分では何もできなかった悔しい記憶も山ほどある。憎しみを感じた事も一度や二度ではない。だからすべての帽子を破壊しようと画策した。
それでも自分の帽子には愛着はあった。願い焦がれて手に入れた、苦楽を共にした相棒なのだ。大事な半身なのはきっと管理人共通だろう。
だが帽子は人間だと知った。そもそも自分の帽子を自分喰いが出る直前まで追い詰めていたのも、ラジオに一緒にしてしまったのも自分だ。自分の帽子だった子とは一応話せてはいるのだが、どうしてもどこか引け目を感じてしまう。
かつての自分の帽子と似たものを見かけると、つい手に取ってしまうものの、知らず苦しめた帽子の子の顔がよぎってしまうのだ。抱きしめて眠るなんて、自分にとっては烏滸がましいにも程がある事だった。
フィユティーヌの帽子はそれとはまた違ったと聞いている。その辺りで感覚が少し違うのだろう。
「メシュレイアくんたちも新しい帽子を買ってきたのかね?」
聞くと、メシュレイアははい、と微笑んだ。
「ショコラさんと一緒に買ってきたんです。」
「あとで見せてくれるかな?キミたちのセンスは皆かわいらしいからね。」
「はい、もちろん。夕食の後にでもお見せしますね。」
メシュレイアはそう言って頷く。そしてふっと時計を見上げた。
「そろそろ起こさないと……。」
時計は夕方近い。起きる気配のないフィユティーヌだが、自分がいるとドーラが出てきてしまう可能性はそれでも少しだけ頭をよぎっていた。
「じゃあ、私はちょっと出かけてくるよ。」
近くのファーマシーまで。そう言うと、メシュレイアは目を丸くした。
「何か?」
「何、ちょっとフィユティーヌくんに悪いなと思ったからね。すぐ戻る。」
ついでに、何か対策も取ってみるか、と、ダリアはそのまま部屋を後にしたのだった。
夜10時過ぎ。
ダリアの部屋には今日もドーラが作業に来ていた。二つ並んだPCのパワーのある方を占領し、設計図の浮かぶタブレットを傍に立てて、上機嫌でキーボードをたたいている。傍に散らかる紙は乱雑に計算が書き殴られたメモ用紙だ。三つの情報をちらちら見比べながら夢中で作業しているドーラの瞳は、宝石よりもキラキラ輝いて、誰から見ても夢中なのが見て取れた。
ここの所、ドーラが毎晩のようにダリアの部屋に来ている理由は、自作物の設計と内部プログラムの作成のためである。丁度佳境、というか作業の進みが良くなって面白くなってきたせいだろう、時間を忘れて深夜までやっているのも日常風景と化していた。
ただ、昨日はダリアとしても少し調子に乗ってしまったなと思ってはいた。研究仲間が目の前に居る環境で、徹夜で作業したり討論したりするのはとても楽しいのだが……今日のフィユティーヌの事を考えればどこかでセーブすべきなのだ。わかってはいる。ドーラの身体はドーラだけのものではないのだ。
「ねえダリア、こっちの機構動かせるようになったんだ!」
問題は、ドーラは基本的に自分優先でフィユティーヌの事をそこまで考えていないという事である。
「今日はどこまで進むかな。」
昼下がりのお昼寝の効用かいつになく元気のいいドーラに、ダリアはニコニコと頷いた。
「そっちはじゃあ私の方でもテストしておこう。
所でドーラくん、ここの所PCとにらめっこが増えてるだろう?今日ちょっとお試しで貰ったんだけどね。」
錠剤の入ったブリスターパックを見せると、ドーラは首を傾げた。
「何それ」
「サプリメントだよ。目にいいんだそうだ。せっかくだし試してみないか?」
ミシン目で切り分けて片側を渡すと、ドーラはうーん、と首を傾げた。
「特に要らないかなあ。」
「まあそう言わず。もったいないじゃないか。」
自分の分を開けて飲み下す。手元のコーヒー一口飲んで落ち着かせると、その様子を見ていたドーラも、そうだねえ、とパックを開けた。
「まあもったいないしね。ありがと。」
錠剤をのみこみ、手元のミルクコーヒーで落ち着かせるのを眺める。
「これあんまり味しないね。」
「確かに。普通ブルーベリーとか味がついていそうなものなんだがね。」
まあお試しだし、と言いながらPCに向かう。隣でドーラも同じようにPCに向きなおったのが見えた。
かたかた、と言う音と、たまのビープ音だけが響く、静かな夜。
テスト作業の合間にちらちらと隣の音を聞き分けていると、やがてカタカタという音が止まった。
見れば、メモの上でくったりと寝落ちしたドーラが見える。時計を見るとまだ11時前だ。
「……30分ちょっと、か。結構効きが早いな。」
日中歩き回っていたからだろうが。
若干眠い頭を揺らして、部屋のドアを開ける。ついでにドーラの部屋のドアも開けて布団をめくると、ダリアは一つ伸びをして、ドーラを抱えあげた。
「……なあに」
既に寝ぼけているのか、抱き上げられている事に対しての抗議はない。
「今夜はさっさと寝てくれたまえ。」
「……ん。」
ゆっくり言って、ドーラの部屋へ向かう。暗い部屋のベッドにおろして布団をかけてやると、ドーラはあっさりと眠ってしまった。
「すまなかったな、フィユティーヌくん。」
ドーラがかなり身体に無理をさせていたらしい事は、流石に理解できた。
先程の錠剤は、近くのファーマシーで買った簡易な睡眠薬……ですらない、睡眠改善薬だ。抗ヒスタミン剤の副作用を利用した簡単なものだが、寝不足の身体には強烈だったらしい。……まあ自分もかなり眠気がきているのだが。
「おやすみ、ドーラくん。」
ふわっとした頭をなでると、ダリアは一つ伸びをして、ドーラの部屋を出たのだった。
しかし、実力行使にはリスクが伴うため、拗れる話(眠り薬とピアスの片割れ)が続きます。