遠くで呼んでいる声がする。
「宇佐見ちゃん、しっかりして、宇佐見ちゃん!」
その声は必死に叫んでいる。
後悔の滲んだ、今にも泣きそうな声。とても好きな声なのにもったいない、となんとなく思う。
「宇佐見ちゃん」
「宇佐見ちゃん、ごめんね」
「宇佐見ちゃん」
よくわからない世界の中で、その声だけはずっと届いている。
「宇佐見ちゃん。
……薬……よくなるって……僕……」
あやふやな言葉の羅列に、声の主の名前を思い出す。
月の国から一緒に逃げて、一緒にいてくれた人。
わたしの、ないとさま。
「こづかくん。」
名前を言葉にした途端、言葉がはっきりと聞こえた。
「待ってて。宇佐見ちゃんは絶対助けるから。」
優しくて、決意に満ちた声。
「うん」
頷くと、そよ風が頭を撫でた。
だが、それを最後に、二度と狐塚の声が聞こえることはなかった。
目が覚めた時、そこにいたのは主治医のサカキ先生。
それと、イツキとマナみとテツロー。
「目が覚めたんだな。よかった。」
ホッとした顔のサカキの横で、三人組がハイタッチして喜んでいる。
「こいつらが薬を持ってきてくれてね。気分はどうだ?」
言われて、すう、と息を吸う。喉は痛くならないし、息もしっかり吸えるし、頭は少しふわふわするけど、嫌なふわふわじゃない。
「……なんだか ちょうしはいいみたい」
言うと、サカキはにこっと笑った。
「さすが奇跡の霊薬だ。だが、結構長いこと昏睡状態だったからな、あまり無理はするなよ。」
「はーい」
いい子で返事をする。確かに体は軽く感じた。どうやっても動かない、重たくて辛いあの感じはしない。
「よかったよー。一時はどうなる事かと!」
イツキはベッドサイドで感涙にむせんでいる。
「なんだかからだがかるいわ。」
言うと、テツローもマナみもホッとした顔でこちらを見た。
「苦労した甲斐あったぜ。」
「運が強いね」
「あんたたちがたすけてくれたのね さんきゅー」
まだ体は疲れたみたいでだるいし、起きるのはもう少し後になりそうだ。
ただ、気になることはあった。
ここに居なくてはいけない人の姿が見えない。
ここにいてほしい人の声が聞こえない。
宇佐見は目だけでサカキの向こうを探し、イツキたちの先を探した。
きょろきょろしているのに気付いたのか、イツキがあのね、と話しかける。
「宇佐見ちゃんを助けたのは、ぼくたちだけじゃないよ。
ぼくたち、遺産の国で狐塚くんに会ったんだ。
狐塚くんはゴーツクさんが持ってる奇跡の霊薬で宇佐見ちゃんが助かるって教えてくれた。」
「こづかくん いまどこにいるの?」
勢い込んで聞くと、まだ少し咳が出る。テツローが困ったように息をついた。
「落ち着け。アイツはゴーツクんとこの地下まで忍び込んでた。霊薬の場所も教えてくれた。ただ大けがしてたから」
「けがしたの?!」
勢いで起き上がろうとすると、フラ、と身体から力が抜けた。
身体は軽くてもまだ思い通りには動かない。狐塚は怪我をしているのに。
マナみは呆れたように宇佐見を片手で寝かせる。
「落ち着きなよ。狐塚の手当てはした。ただ、ゴーツクのとこから薬を持ち出した時には居なくなってたんだ。」
「ぼくたちそれっきり会ってないんだ。でも、……だから、君を助けたのはぼくたちだけじゃないんだよ。」
ね、とイツキは笑う。
「……そう。」
それなら、そのうち顔を見せてくれるだろうか。早く会いたい。
「こづかくんは ここにいたの?」
「狐の子なら居たな。ここに運び込んだのも彼だそうだ。いつからかいなくなってたが……」
サカキが受け取る。
「……またくる?」
「来てくれなきゃ困る。私の宇佐見を連れまわしてこんな目に合わせた重要参考人なんだからな。」
「こづかくんにも おれいをいいたいわ」
「そうだな、あいつが来たら言ってやりな」
もしも狐塚が帰ってきたら、一番に元気な姿を見せて、ありがとう、と伝えたい。
「わたし はやくげんきになるわ」
「そうだね、早く元気になってね」
イツキはうんうんとうなづいている。
そうだ。まずは早く元気になろう。そして、狐塚くんにありがとうというのだ。
それは恋する乙女の小さな決意だった。
月の国の明けない夜の中、三人組はまた旅立っていった。
それから寝て、起きて、を繰り返して、ベッドの上に起き上がれるようになったころ、空に浮かぶ月の近くで花火が上がるようになった。
窓の外できれいに花開く花火を眺めていると、狐塚くんと一緒に見たかったな、とちょっと思う。
狐塚は、まだ来ない。
家の近くを散歩できるくらいに回復したころ、灰色の男たちが世界から消えた。
元の姿に戻った、という話らしいが、宇佐見にはそいつらの元の姿なんてわからない。ただ、あの辛気臭くてよくわからない灰色が居なくなったのは、何だかホッとするな、と思った。
狐塚くんはなんていうかな、とふと思う。
でも彼は、まだ来ない。
「ずいぶん良くなったね」
月の国の集落の中を往復できるようになった頃、サカキがそう言った。
「宇佐見は基本的に病弱だからな、まだまだ無理はできないが。」
「ありがとう せんせい」
そろそろ自分は元気になった。
だが狐塚はまだ来ない。
もしかしたら、来る気がないのではないだろうか、と宇佐見も薄々思い始めていた。
そもそも、狐塚は黙って出ていったらしい。
一緒にいたのは少しの間だけだったが、薬届いたか?よかったなーなんて能天気に帰ってくるタイプじゃない、とは思う。
何より、ずっとずっと聞こえてた声、耳から離れなかった狐塚の声は……多分、ずっとずっと責任を感じていたみたいな、そんな声だった。
だが、狐塚が帰ってこなかったらどうだろう?
……あれっきりだなんてぜったいおことわりよ。
宇佐見は何時だって診療所のお布団で、誰かが来るのを待っていた。誰かが助けてくれるのを待っていた。
けれど、それではきっと再会は叶わない。
「でも わたしはげんきになったんだわ」
今なら狐塚に会いに……狐塚を探しに行けるのではないだろうか。
月の国のお店を眺めながら、宇佐見はそんなことを思う。
日課の散歩の帰り道、集落の出口がちらりと目に入る。その向こうは、いつか狐塚と初めて会った場所だ。
もう行けるだろうか。大丈夫なのではないだろうか。きっと大丈夫に違いない。
「そうよ いまこそ たびだちのとき なんだわ」
宇佐見はちょっとだけ食料を買い込むと、そのまま足を集落の外に向けたのだった。
はじめて会った場所は覚えている。
森の中。
自分は崖の下にいて、上から狐塚が落ちてきて、自分をここまで連れてきた灰色男たちをつぶしてしまって、それで一緒に逃げたのだ。
今でも瞼に浮かぶのはあの時の光景、そして声。
『僕は君を助けに来た。一緒に逃げよう』
狐塚はそういって手を差し伸べた。
その姿は、近い月の光でまばゆく輝いて見えたのだ。
狐塚が落ちてきたところ、上のほうに上ってみると、月の国がよく見えた。
さっきまでいた集落、一緒に逃げ込んだ観測塔。
「こづかくん どこにいるの?」
呼んでみても、声は夜に吸い込まれていくだけで、狐塚の声は返ってこない。
だが、きっと焦りは禁物なのだ。
「まずは ちかばからつぶしていくのよ」
宇佐見は、ぐっと足を踏ん張ると、ぎゅっと踵を返した。
目指すは観測塔。二人が一番最初に逃げ込んだ場所。そして、ここよりもっと広く見渡せる場所だった。
塔まではさほどかからずに着いた。
この塔は、上のほうが居住区になっていて、老人が一人住んでいたはずだ。とにかく今日はそこまで行こう。そう思って塔を上る。
階段をくるくる上り、邪魔するやつを飛び蹴りでふっ飛ばしていると、なんとなく狐塚と一緒にいた頃を思い出す。
あの時は二人で協力して塔を上ったのだ。狐塚は魔法が少し使えたからとても頼りになったし、いつだって気にかけてくれていて、それがとっても心地よかった。
階段を上がって上がって、息切れがひどくなった頃になって、ようやく居住区にたどり着く。
「こんにちは じいちゃん またきたわ」
しかし、返事はない。
「じいちゃん るすなの?」
人が住んでいるような形跡はなくもないが、前の老人がいたころとはなんとなく匂いが違う。
きょろきょろと見回すと、何か見覚えのない剣が突き刺さった場所が見えた。
「おはか?」
まだ新しい。そのうえ剣が突き刺さっただけの簡素な場所。だが、なんとなく、そんな気がした。
「だれかはしらないけど」
どうかやすらかに。
なんとなく膝をついて祈りをささげると、宇佐見はよいせ、と立ち上がる。
と。
「誰?!」
窓の方から最悪に剣呑な声がした。だが、それはとても知っている声で、宇佐見は驚いて振り返る。
「まなみ?」
顔を向けると、箒に乗った魔女が飛び込んできたところだった。
「宇佐見?アンタこんなとこで何やってんの?」
「こづかくんを さがしにきたのよ
てゆうか なんでまなみがここにいるの」
聞くと、マナみは目を丸くして、そして深々とため息をついた。
「ここは私の家だよ。
なんで狐塚がここにいると思った?」
「こづかくん どこにいるのかわからないから とりあえずちかばからつぶそうとおもったのよ」
胸を張って答えると、マナみは眉をしかめた。
「だからって塔にいるわけないでしょうが」
「だって わたしたち とうにかくれていたわ」
「あー……そうか、そうだった……」
頭痛い、という顔でマナみはまたため息をつく。
「そうだ ここにすんでた じいちゃんは?ひっこしたの?」
「ううん、ジジイならそこ。」
マナみは剣の刺さった墓を指さす。
「ちょっと前にね」
その声は素っ気ないが、隠しきれてない悲しみが見えていた。
「そう あんたも つらかったのね」
「べ、別にそんなわけないし!」
マナみは慌てて否定するが、悲しみも動揺も全然隠しきれていない。
「うそはだいたいわかるわ ちゃんとみとめなさい」
「何をえらそうに」
「まなみは かなしかったんでしょう」
マナみはむぐ、と言葉を詰まらせた。
……悲しくないわけないじゃん
ぼそ、とそんな言葉が聞こえる。だが、ちゃんとした言葉はやっぱりつっけんどんだった。
「とにかく。ここに狐塚はいない。あんたの用事はないはずだ。」
さっさと帰れ、という顔にこくりと頷く。
「そう じゃあ うえのほう みてくるわ。」
「上にだっていないよ。」
マナみはそう言って首を振る。
「なんでそんなことしってるの?
まなみはこづかくんがいるばしょ しってるの?」
「知らないけど」
「じゃあわたし 上にいくわ
またね わたしのまじょ」
踵を返し、宇佐見は上階への階段を上る。
塔の一番上でも、狐塚と一緒にいた記憶があった。
確か、イツキたちが駆け込んできて、狐塚を殴ろうとしたから殴り返してやったのだ。あの時、マナみは確かストックホルムがどうのこうの言ってた気がする。そちらはよく覚えていないが。
屋上に出ると、高い場所の風が頬を撫でた。
ここでイツキたちと喧嘩したっけ。なぜ殴りかかってくるんだーって言われたっけ。それで、逃げられないって思って……
塔の外側は広い世界が広がっている。月の国どころか広い広い冬の国や樹海、砂漠まで一望できた。きっとこのまま飛べたら、真っすぐ狐塚のところまで行ける気がしなくもない。
「あいきゃんふらいだわ」
塔の端っこに手をかけると、がし、と後ろから引き戻された。
「できないからね!?」
「あれ まなみ」
嫌な予感がして追っかけてきてみたら……!と、マナみはぜえはあ息を切らしている。
「魔法が使えたのは狐塚の方だろ。あんたが飛んだらHappytreefriendsコースまっしぐらだよ。」
「ほんとうのまほうはなんだってできるのよ」
「魔法はそもそも使える奴と使えない奴がいるんだっつの!!
わかったら階段を下りて帰れ!」
ぐいぐい引きずられてそのまま階段を下ろされる。ずりずりと無言で引っ張られて、ちょっと腕が痛い。
「まなみ あんたはひとさがしするときって どうする?」
ずりずり引きずられながら、宇佐見はマナみに声をかけた。
「探さなきゃいけないような奴は 私が必要とする奴じゃないし、相手も私を必要としてない」
階段をもう一つ降りると、もう居住地だ。ようやく腕が解放される。。
「……だけど、今は……」
マナみはふうと息をついた。会いたい人がいるのだろうか、一瞬遠い目をする。だが、こちらに向き直った顔はいつもと同じクールなものだった。
「一般論なら、まずは情報を集めるかな。それこそ探偵にでも頼むんじゃない?」
「たんてい」
探偵。それは事件を解決したり人探しをしたりするやつだ。テツローがそんなことを言っていた。
「たんていは どこにいるの?」
「はあ?……あー、今なら鉄の国でテツローがやってるよ」
「てつのくに。てつろー。たんてい。」
宇佐見は心に深く刻み込んだ。
「わたし いまからてつのくににいくわ」
決意を新たに足をグッと踏ん張る。しかし、その力はふらりと抜けていっていまいち格好がつかない。
「ここずっと夜だけど、もう遅い時間だよ。明日にしな。」
「とまっていくわ」
「図々しいな。まあいっか。」
おいで、と招かれて部屋に入る。
ベッドは二つあった。寝かせてもらったベッドは、なんだかやさしいじいちゃんの匂いがしたのだった。
次の日。
「てつのくににいくわ さんきゅー まなみ」
「はいはい、気を付けて」
見送られて塔を出た宇佐見は、歩き出してさほどしないうちに困っていた。
鉄の国へ行く道がわからない。
前にここに来た時は、よくわからないまま灰色の男たちに連れてこられていたから、道なんてわかるはずもなく、何かで見た地理を思い出そうとしても、いまいちちゃんと思い出せない。
「とりあえず こっち」
適当に歩き出して10歩。
「どこに行ってるの?!」
塔からマナみが文字通り飛んできた。箒に乗って。
「てつのくによ」
「方向が違う!」
額をおさえ、マナみが言う。その指が指し示すのは確かに逆の道だ。
「もしかして、道とか地理とかわかってないね?」
「みちは どこにだってつながっているの そういうこともあるんだわ」
「少しは後先考えないと野垂れ死ぬよ」
後先。……そういえば前に狐塚にも言われた気がする。
『宇佐見ちゃん なんで君はそう後先考えない事しちゃうの!?パンクロッカーなの!?』
あとさきはきっと考えた方がいいのだ。よくわからないが。
そして、今、後先を考えた行動は。
「じゃあ いっしょにてつのくににきて」
「はあああ?なんで私が?」
マナみは目を丸くし、バカ言ってるんじゃない、と首を振る。
「あとさき とかいうのをかんがえてみたわ
わたし テツローのいえをしらないわ みちあんないがひつようよ
れっつごーだわ」
足を逆に向けて歩き出す。
しかし、10歩先に進んでも、振り向いたらマナみは呆然と箒片手に突っ立っているだけだ。
「まなみ ぼーっとしてないで ついてきなさいよ」
声をかけると、マナみはがしがしと頭をかいて、深々とため息をついて、そしてずかずかとこちらに歩いてきた。
「しんじらんない」
「でもきてくれた やっぱりわたしのまじょだわ」
「別にあんたの魔女じゃない!ただあんたが野たれ死んだら寝ざめが悪いと思っただけだし!ふんだ!」
マナみはどすどすと歩いていく。だが、その速度は少しゆっくりで、宇佐見にそれなりに合わせているらしい。
「つんでれだわ」
「やかましい!」
夜の明けない月の国に、マナみの声が響きわたった。
マナみとの旅はびっくりするくらい順調だった。
道は間違えないし、ちょっとの段差はマナみの箒でひとっ飛びだし、砂漠は砂渡りの綿衣で駆け抜ける。
モンスターが現れてもさくっとWCでぶっ飛ばす。多少うち漏らしても、あとは自分の飛び蹴りで片付く範囲なので、今のところ危険はあまり感じない。
おまけにマナみは、自分とは比べ物にならないくらい旅慣れていた。
「まなみは とてもたびが じょうずだわ」
「成り行きで結構歩き回ったからね。今回も成り行きだけど」
旅の途中の休憩中。マナみはスパイスミルク緑茶を飲みながら、はあと息をつく。
「これはいいなりゆきだわ」
「自分で言ってれば世話ないな。」
冷静な言葉にも、諦めと慣れと柔らかさが見えるようになってきた。
「そういえば宇佐見、アンタさっきも知らない奴に声かけてたけど」
先ほどすれ違った人に、確かに声はかけた。はかばかしい返事は返ってこなかったが。
「ん− こづかくん しらないかってきいてたのよ」
「そうか。」
「きつねもきものもしらないってさ つまんない」
ぷう、と膨れると、マナみは小さく肩をすくめる。
「あんたなんでそんなに狐塚をおっかけてんの?」
「あっておれいをいいたいの」
答えは最初から決まっている。
「こづかくん わたしがつきのくにで めがさめてから ずっとあってないわ」
「そのあとは?」
「そのあとなんて そのときがきてからきめるわ けせらせらよ」
びしっと言うと、マナみは目を真ん丸にして、そして、あきれたように笑った。
「本当勢いだけで生きてるね」
「わたしは いつだって しんりょうじょで だれかがくるのをまってたわ
でも それじゃ いちばんあいたいひとには あえないみたい
だから こづかくんには わたしからあいにいくの」
ごうりてき、と胸を張る。マナみは、あんたがいいならいいけどさ、と立ち上がった。一緒になって立ち上がる。休憩はおしまいだ。
「しんりょうじょのそとのせかいは おもったよりとってもひろかったわ ぐらんどふぃーるどだわ
いっぱいみなくっちゃ もったいないわ」
「そーかそーか。」
鉄の国はもう少しだよ、とマナみは言って歩き出した。
隣に立って歩くのにも結構慣れてきた気がする。行く先には、鉄の国の高い建物が見え始めていた。