静岡には、自分にしか見せない顔がある。
気がつくと、傍らから静岡の姿が消えていた。
楓の揺れる赤い橋の上。風情は良いし渓流の水音は涼しいのだが、それをすっ飛ばしてあいつはどこに行ったのだろうと辺りを見回す。
渡る先は竹林。その竹の隙間に、静岡の桜の袖がチラリと翻るのが見えた。どうやら先に行ってしまったらしい。
「ったく、こんなイイ男を置いていくなんてなあ。」
バチ当たるぞ、等とひとりごちながら先へと足を進める。
薄闇の中、ほのかな灯りで浮かび上がる竹林の中を、からころと下駄の音が遠のいていくのが聞えた。人に紛れて消えてしまいそうなのに、静岡の音だけは理由もなくはっきりわかる。
ざわざわと竹林を通る風。その音にそのまま紛れて消えてしまいそうな気がして、自然、追う足は速くなった。
しかし、ついてきていない事に気付いたのだろうか。やがて、からころと石畳を飛び跳ねる音と、急かすような声が振り返る。
「カナちゃん、蛍さんたち寝ちゃうよー。」
人の中でもはっきり通る声に少しホッとした。
「そんなすぐに寝るかよ。」
言いながらも、足はそちらに向かって駆け出している。
この先の蛍の見頃はそろそろな夜七時過ぎ。見物客でこの竹林の小道もそこそこの人出なのだが、そんなものはお構い無しだ。
縞の浴衣の裾を翻し、カラコロと下駄の音を響かせて駆けた。先で待っているのは、桜色の浴衣を着た静岡だ。
追いつくと同時に、桜色の袖がこちらに伸び、神奈川の手を取った。
「カナちゃん、いくよー!」
小さな手は、神奈川の手をしっかり持ってぐいぐいと引っ張っていく。
とはいえ、コンパスの長さは段違いで、走るような静岡の動きにも大方早足で付いていけた。無駄な身長差のせいでバランスを崩してコケなければ問題は無いし、コケるつもりは無論矜持にかけてありはしない。
人で賑わう円形の広場を通り越し、竹林の残りもつっきって、川沿いの道を走るように歩くと、やがて先の方から笛の音が聞えてきた。
「今年もやってるねえ。」
「んだなあ。」
会場が近づいて少し安心したのか、静岡も少し歩くのがゆっくりになる。
歩調をあわせて進む先、暗闇の中に小さな灯りが浮かぶ公園が目的地だった。
「お、いるいる。」
中の小川の方に目をやれば、もう既に蛍が飛び回っている。
「綺麗だねえ。」
「ああ。……ん?」
片手に持った団扇に、風とは違うかすかな手ごたえがあった。そっと裏側を窺うと、蛍が一匹ふわりと飛び立つ。
「あらら、いたんだ。」
見上げる二人の間をするりと抜けて、光は消えてしまった。
「俺ってば蛍にもモテるからな。」
「はいはい、そうかもねえ。」
半呆れ、といった体で、静岡は小さく笑う。その回りを、蛍がまた一匹掠めて消えた。
灯りを嫌う蛍のために、園内の灯りは足元が朧に見える程度だ。
「足元、気ぃつけなきゃだめだよ。」
先を行っていた静岡が、言いながらひょいっと振り返る。
「わかってるって。」
そう言いながらも、ほら、と差し出された手をついつい取ってしまったのは昔馴染みの空気のせいだった。静岡はその手をゆっくり引くようにして、園の中を歩いていく。
そういえば、昔……遠い昔も、こうやって手を引いてもらったような・・・気がする。
遠い思い出だ。懐かしくて、少し歯がゆくて、暖かくて、もどかしい記憶。
『相ちゃん、足元気ぃつけなきゃだめだよ。転んだら痛いんだから。』
自分より少し大きな駿河は、そう言って幼かった自分の手を引いてくれていた。全部任せていいからね、というような暖かい微笑みと一緒に。土地である自分に母親は居ないけれど、居るのなら少々不本意ながら多分こんなところだろう……と今なら思う。
「カナちゃん!ぼおっとしてたら転ぶよ!」
唐突に手元で声がして、思わずつんのめった。
「うわ!?」
ギリギリで持ちこたえて、身体を起こす。
「もう、気をつけてって言ったのにー。」
「しずがいきなり声掛けるからだろ!」
「カナちゃんがあんまりぼおっとしてるからだで。」
大丈夫?とカケラだけ心配そうな顔に、大丈夫だっての、とぞんざいに頷く。すると、静岡の顔が、ほうっと緩んだ。
「それならいいんだけど。」
思い出していた昔の微笑みとダブって、少しドキりとした。
あわてて目線を反らすと、少し先、蛍から離れたところに出店が出ている。
「しず、アレ食べようぜアレ。」
「アレ?……ああ、うん、いいねえ!」
ぱっと幼子の笑みを見せて、静岡がほら行こまい、と手を引っ張った。
「かーゆーいっ。くっそぉ、蚊の奴ー。」
宿の部屋。
文句を言いながら神奈川は行儀悪く足を投げ出す。
笛の音が止み、舞う光も少なくなったところで自分たちも宿に戻ってきたところだった。蛍は綺麗だったし竹林は涼しくて気持ちが良かったのだが、目下のところ、足首やら手やらが赤くなっているのがいただけない。
「蛍見物の宿命って奴だねえ。」
やれやれ、と薬を引っ張り出しながら静岡が笑う。白い蒲団の上に座り込むの静岡の腕も、同じように所々赤くなっていた。
薬を塗ろうとチューブを押した静岡の前に、所々赤くなってしまった手を差し出す。
「こっちもー」
「……カナちゃん、薬くらい自分で塗ればいいに……」
「いいじゃん、ついでだし。」
「ついで、ねぇ。」
仕方ないねぁ、と息をつきながら、静岡の手に行くはずの薬はこちらに回ってきた。
柔らかな指が触れ、てきぱきと薬を塗っていく。
「キンカン持って来れば良かったかな。」
「えー。嫌だぜ、あれ痛くなるじゃん。」
「……だからなんだけど。」
ぼそっと聞えた最後は聞こえなかった事にしてついでに足も伸ばす。
「……塗れってこと?」
「おう。ついでだし。」
「甘ったれるんじゃないの、もう。」
ぺちん、と足をはたかれた。ついで、薬のチューブが飛んでくる。
「自分でやんなよ。」
「ケチー。」
「ケチもへちまもないの。」
もう、と言いながら、静岡は半幅の帯を解いている。寝巻きに着替えるつもりだろうと踏んだところで視線をそらした。じろじろ見るのは親しき仲にもなんとやらに抵触するのだ。
そして、そらした視線の行き先は、結局薬と自分の足元だった。といっても大した事があるわけでもないから、すぐに終わってしまう。ひとまず自分の格好が既に寝ても差し支えない状態なのをいい事に、そのまま蒲団に寝転がることにした。そして静岡の方を向かないように自分の荷物まで転がると、暇つぶし用に持って来ていた携帯ゲーム機を引っ張り出す。
電源を入れるとピコーンと音が鳴った。ついで流れてくるのは、ここ最近聞き慣れるくらい聞いたBGMだ。そのせいか、静岡の意識もこちらに向いたらしい。
「カナちゃん、どこまでいった?」
「めでたく村クエ終わったトコー。持ってきてんだろ、後で相手しろよ。」
「はいはい。」
くすっと笑ったような静岡の返事が聞えた。
どんな表情をしているか、なんて見ていなくてもわかる。
きっと、自分にしか見せない顔をしているに決まっているのだ。
呆れたような、仕方ないねというような力の抜けた表情と、優しい笑顔を足したような……どこか幸せそうな表情。昔から見ている、姉だか母親だかわからないような少し大人びた顔。
けれど、今では静岡は自分の前でしかそんな表情をすることはなくなった。いつも見た目の年齢相応に振舞って、相応に可愛がられているから、きっと周囲は幼子のような静岡の表情しか知らないだろう。
だからこれは、自分だけが知っている表情なのだ。でも、無論他の奴に見せてやる事なんて無いと思っていた。
そう。
自分は、そのどこか幸せそうな笑顔が何より好きなのだ。