お昼時、手の空いたもので播磨の部屋に昼ごはんを持っていくのはここ最近のお決まりとなっていた。
脚の骨折が一番酷かった都合上、播磨は怪我から数週間経った今でも未だにまともに出歩けないでいる。とはいえ上半身はそこそこ動くようになってきたこともあり、そろそろ松葉杖で歩いて歩けないことは無いらしいし、家の中ではえっちらおっちら移動している姿を見る事も増えてきたところだった。
「播磨ー?」
開けっ放しの戸から神戸は室内に声を掛ける。
返事は無い。
ただ、室内から覚えのうっすらあるような無いような匂いがした。
昼食を載せたお盆を持ってそっと中を窺う。次の間には豪奢な着物が見えたが、本人は居ない。ただ、縁側に目をやると、播磨が羽織を背にかけ、縁側に腰掛けていた。
ただしいつもと違うのは、片手から延びる細い煙管と、その先から漂う安物ではない煙草の香り。そして、思い耽るように着物を眺める視線。
ぞく、と背筋が凍った。
そこにあるのは、怖くて仕方なかった昔の播磨の姿だ。羽織を背にかけた後姿と相まって、紫煙の煙るそこだけが昔に戻ったような気すらする。
硬直しているうちに、ふう、と煙が吐き出された。
あの怖い播磨がこちらを向く。その事実に反射的に腰が引ける。
しかし。
「……ああ、神戸か。すまへんな。もうそんな時間かいな。」
播磨はかたんと煙管の灰を捨てると、いつも通りの気安さでこちらに向き直った。何か拍子抜けして、拍子抜けしたついでになんだか腹が立ってくる。
「うん、もうそんな時間や。播磨、何、煙草吸ってたん?」
ずかずかと部屋に入り、どん、とちゃぶ台にお盆をおくと、播磨は小さく舌打ちをした。
「やめてくれへん、怪我人の癖に。家中臭うなるし、怪我治りも遅うなるし。」
「やかましわ、俺の部屋で何やってようが俺の勝手やろ。」
荒れた声にぶすっとむくれながら煙管を置くその腕には、まだギプスがくっついている。その状態でわざわざ煙管を使おうというのだからよっぽどの物好きだ。
「それに火事のもとになるし。」
「あーもうはいはい、今火ぃ消したよって、全く。」
よいせ、と動く腕を駆使して、播磨はこちらにやってくる。ただし、脚はまともに動かないので、片腕で身体を引きずるような形だ。その姿が痛々しくて、ずき、と胸が痛む。
……播磨はなぜか責めるような事は言わなかったが、これは自分のせいなのだ。
「なんや、またそんな辛気臭い顔して。気にするなって何度言ったらわかるんや?」
声に視線を向けると、呆れたような顔で播磨がこちらを見つめていた。
「箪笥の脚が弱ってただけって但馬もゆってたやんか。」
「けど……」
「けども何もあるかい。そんな辛気臭い顔するなって、俺何回言うた思ってるんや。
さっきみたいに怒ってる方がまだマシやで。」
よっこいせ、と座椅子に陣取り、ふうっと息をつく。その息はまだ少し煙草のにおいがした。
「さて。……いただきまーす、っと。」
上手く動かない腕を適当にあわせると、播磨はさっさと昼食に取り掛かる。今日の献立は普通にごはんと味噌汁、炒め物と切り身魚に添え物の釘煮が置いてある程度のシンプルなものだ。その様子をぼんやり眺めていると、播磨がひょいとこちらを見た。
「……これ、丹波やないな。お前か?」
しっかり和食でそろえたのに、一口で見破られたのは嬉しいのやら悲しいのやらである。
「……よおわかったな。」
「なんかいつもより柔い味したから。」
釘煮を咀嚼し、ご飯と一緒にこくん、と飲み下す。
「……うん、旨いやん。」
播磨の頬が少し緩んだのがわかって、ふわりと嬉しさが広がる。
「ありがとう。」
そっと添えていたいかなごの釘煮は、播磨と共通の好物だ。ゆえに、そこそこ気合を入れていた。
そこを褒められたら嬉しくないわけがない。にへ、と頬が緩む。
「うん、それでええんや。」
箸と椀を持ち替えながら播磨が言う。
「何が?」
「他人が食事してる時くらい、笑っとけってことや。辛気臭い顔が隣にあったら飯不味なるやろ。」
味噌汁を飲んで、ふっと一息。次の料理に取り掛かったところで、播磨の方についていっていた目線をそっとそらした。見ていてもいいのだけど、播磨が嫌がりそうな気がするのだ。
外した視線は、部屋の中をふらりと彷徨う。机やなにやかや、少し散らかっているのは当人が余り動けないからというのもあるのだろう。そして、彷徨った末に次の間の着物で止まった。
赤と金の豪勢な着物。播磨は昔はかなり大きな国だったから、そういうものがあってもおかしくないとは、初めて見たときから思ってはいた。
でもこれは、今見ると……自分の余りおぼつかない知識を総動員しても、武家のものというより色街のものだ。武家のものという感じではなく、趣味としても太夫が着ていた花魁衣装に近い。
加えて、さっき見たあの表情……持つべき人は昔の馴染みだろうか、それとも……。
「なんや、やっぱり気になるんかあの着物。」
声にはたと振り向くと、まふ、と白飯を頬張りながら播磨がこちらを眺めていた。
「うん、まあ……花魁衣装に見えるけど……その。」
どうにも聞き辛くて言葉が濁る。
「うん、花魁やってた人から貰うたんやけど。」
着物を贈るとなれば、それ相応の関係があっただろう事は想像に難くなく、触れてはいけないような気がする。しかし気まずさに飛び込む前に、怪訝そうな声が意識を引き戻した。
「……お前何か勘違いしてへんか?」
「え?」
顔を上げると、播磨は普通に焼き魚をつついている。
「なんかえらい少女趣味な事考えてる顔してるで。」
「だって、その……なら他に何があるん?」
「何って、……んー、せやなあ……。」
そして、少女趣味とはかけ離れた様相でこくんと飲み下すと、一つ息をついてこちらを見た。
「……昔な、お前みたいに俺の身代食いつぶして豪勢に着飾って豪勢に遊びまくってた奴がおったんや。」
「お前みたいに、て。」
む、と言い返した言葉には答えず、播磨はふいっと視線を食事に戻す。
「悪い奴やなかったんやけど、何せ遊び方が豪快でなあ。
ある時数千両掛けて吉原の花魁落籍してきて、数千両掛けて宴会開きよってん。」
「数千両……」
思わず呟く。花魁の居た時代、数千両といえば今の時代なら億単位だ。そんなこちらを見ながら播磨は小さく笑う。
「せや。何千両って凄いやろ。そしたら、そのうちお上に話が行って、強制的に隠居にさせられて、見事うちを追い出されてん。」
「…………。」
因果応報、というわけではないらしいのは、播磨の少し寂しげな表情からなんとなくわかった。
「そのとき、一緒に国を出て行った元花魁の奥方にそれを貰たんや。国替えは流石に殿も堪えたみたいやし、自分もこうしてはおられんと。花魁やった自分はここに置いていくってな。」
ふう、と息をついて、着物のほうを見やる。
「けど、俺もそん時はなあ……決意はわかるけど、あの人は悪くないと思うけど、食いつぶされたのは事実やし、凶作やらなんやら重なってそれどころやなかったし。」
悔いが残っているような声だ。しかし播磨は、ひょいっと肩をすくめただけだった。
「ゴタゴタに仕舞いこんでそのまま放ってて、まあ、なくしたもんと思うてたって訳や。」
「それだけ?」
それならあの物思いに耽るような表情は……蔵でこの着物を見たとき、明らかに動揺していたようだったのは、何だったのか。
しかし播磨はけろっと箸を取り、白飯と釘煮を一緒にして食べだした。
「ああ。他に何ぞあるように見えるか?」
ただ、なんとなく何かをはぐらかしたいのは見て取れる。なんとなく、なのだが。
「それだけ、の割には着物見たとき偉い驚いてたなと思って。……明らかにあの時固まってたで?」
「別にそんなつもりはなかったんやけどなあ。」
「本当に?」
もしゃもしゃと咀嚼している播磨の服を掴む。こくり、と飲み下したあと、視線がこちらを向き、ぶつかる。
そしてしばし。……先に諦めたのは播磨の方だった。
「……お前がその着物持ってきたときにな、なんかあいつらとダブったんや。
奥方はあれで聡明で気のきく美人やったから、お前との共通点なんてやたら派手なとこくらいしかないのにな。」
「何言ってるん、共通点しかあらへんやん。」
播磨は鼻で笑う。
「……よう言うわ。」
しかし、それ以上はなかった。ただ、少し寂しげに肩をすくめて、ふいっと食事が再開される。
ダブった、というのは嘘ではないだろう。でも、思った事の半分も口にしていないのは確実だ。……もちろん、聞いてもどうしようもないし嫌がられるのも間違いない。
そしてしばし。
「ごちそーさん。おおきになー。」
ぼんやりしているうちに、かたん、と箸が置かれた。
振り返ると、動く方の手だけで拝むようにしているのが目に入る。
「ええの。怪我させてしもうたんはうちやし。」
片付けるか、と空の器に手を伸ばすと、播磨はその脇でつまらなさそうに息をついた。
「消化悪なるような事いうなっちゅうんや。」
ぶすっとした言葉にごめん、と謝る。
と、そのとき、播磨の顔に何かくっ付いているのが見えた。米粒だか魚のカケラだか、子どもみたいな様相で、思わず二度見する。
「播磨、ちょっとええ?」
近くにあったティッシュを取ると、怪訝そうな顔がこちらを向いた。
「何や?」
「ごはん?くっ付いとうよー。」
やっぱり子どもみたいでなんだかおかしい。
「ええってそれくらい自分で」
「どうせ腕も満足にうごかへんのやろ。」
体を仰け反らせて嫌がるのがなんだか面白い。まあ不自由な体で逃げられるわけもなく、あっさりホールドできた。
「ほら、大人しくせえや。」
「ええって言ってるやんけ」
少々顔が赤いのがまた可笑しい。問答無用で口の方にティッシュを持っていったそのときだった。
「播磨ー、大丈夫けぇー?」
「播磨さん、お邪魔しま……」
開け放した戸からの声に、空気が固まった。見れば岡山と香川が連れ立って呆然と立ち尽くしている。
真っ先に我に返ったのは香川だった。
「お、お邪魔しましたッ!!」
言うや否や岡山を引っ張って出て行こうとする。
「待って香川、コレは違うんっ!!」
それを見て我に返り、神戸も慌てて播磨から飛び離れた。
「播磨……お前。」
「言うな。何も言うな。……神戸、お茶持ってきてや。」
後半は自分に向けた言葉だ。
「わ、わかった。ごめんな、ゆっくりしていきや。」
上からの言葉にも、反論とかカチンと来る余裕すらなく、言われるがまま部屋を後にする。
部屋を出て数歩。
「何じゃったんや、さっきのあの顔、えれぇ傑作っ……!!」
岡山の大爆笑が響いた。
「やかましわ!!不可抗力や不可抗力!!全部忘れんかい!!」
「忘れられるわけないじゃろ、あんな真っ赤な顔しとったん、もう、写メでも取っとけばよかったわ!!」
「おーかーやーまーっ!!!」
やたら賑やかな室内の声で、こちらの顔まで血が上ってくる。そういえば、播磨と岡山は幼馴染だ。自分の前では見た事のない岡山のあの無遠慮さはそのせいか。聞かなかった事にして廊下を行く。
お茶を淹れながらぺちぺちと頬を叩くが、どうにも赤みが抜けない。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。
お盆を持ったところで来客用の笑顔を今更ながら無理やり作った。こういうのは得意だし、引きつっていてもさっきよりはましである。
「お待たせー。ほんま人使い荒いんやから。」
何もなかったかのように部屋に戻ると、岡山は何事もなかったかのように居住まいを正し、香川と共にちゃぶ台の方に座っていた。播磨は未だ仏頂面のままだ。
「すみません、気を遣わせてしまって。」
「ありがとうございます。」
口々に言う二人に、にっこりと笑いかける。
「ええよ、ゆっくりしていき。」
ここまでは大丈夫だ。これならイケる。ホッとしたところで、片付け損ねていた食事の分を取り上げた。播磨の前に新しくお茶を置いて、あとは部屋から出て行けばいい。
が。
「ありがとうな。」
とん、と聞えた言葉に思わずそちらを振り返った。その拍子にまた目があう。反射的に顔に血が上った。向こうもそれは大差ないらしく、顔が赤くて、それがまた恥かしさを増幅させる。
恥かしすぎて固まる。顔なんてもう見れない。こんなの無論予定外だ。
震えて取り落としそうなお盆を一旦ちゃぶ台に戻し、深々と息をつく。
意を決してお盆を取り上げ、すっと息を吸った。
「もう、何しおらしいこといいよおの。らしくなさすぎて気色悪いで!」
無理やりに一口に言葉を押し出して、そのまま部屋を出る。顔から火が出そうなのはもう絶対播磨のせいだ。
冷静に、冷静にと思いながら歩く。でも足はどんどん早くなって、台所に着く頃にはほとんど駆け足になっていた。
がしゃん、と流しにお盆を放り込むと、逃げるように自室へ飛び込む。
そしてクッションに顔を埋めた。
自分の顔もさぞや赤くしていただろうが、播磨だって顔が赤かったわけで、間違いなく照れていたわけで、つまりどういうことなのかなんて考えるのも恥ずかしいわけで、何もないのかもしれないわけで……思い出すとまた顔が赤くなる。嬉しいのか恥かしいのか死んでしまいたいのか良くわからないけど混乱しているのは間違いない。
なかった事にするには、まだ時間が必要なようだった。
お姫様の元ネタは何代目かの高尾太夫。姫路の城主に嫁いだんだけど夫婦そろって派手で追い出されて新潟に放り出されたらさすがに真面目に働くようになった…みたいな話があってですね。でも、旦那の方はゆかた祭りの祖とも言われているし、案外播磨さん自体は悪く思ってなかったんじゃないかなあと。
岡山さんは多分神戸が出て行った途端肩震わせて爆笑してると思います。
香川さんはそれを窘めつつ肩を震わせていると思います。
後には動けない播磨さんの仏頂面が残るのだと思います。もう岡山さっさと帰れとか言い出す勢い。