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理由

 鞄には本を何冊か。それと甘いチョコレートのお菓子。
 頼まれものを確認すると、ヨウコは部屋に掛かった名前を確認してドアを叩いた。
 「ツバメちゃん、ヨウコさんからお届け物ですよー」
 中に声をかけると、直ぐに、どうぞ、と可愛らしい声が返事をする。
 ドアを開けた先には、ベッドがいくつか並んだ部屋……というか病室があった。
 「ヨウコさん、ありがとうございます」
 奥の方のベッドからよろりと身体を起こして、ツバメがドアの方を向く。
 「随分動けるようになったのね。」
 「ええ、おかげさまで。」
 真っすぐツバメの元に向かうと、ヨウコは鞄から本を取り出して手渡した。
 「はい、頼まれてた問題集と参考書。」
 「ありがとうございました。」
 よいしょ、と、ツバメは布団の上に本を広げる。並んだのは高校入試用の問題集だ。
 「分からない問題あったら聞いてね。ヨウコさんも一緒に考えちゃうから。」
 「あ、ありが」
 「そういう時は、教えてあげるって言うもんじゃないの?」
 ツバメの声を遮るように隣のベッドから声が掛かって、ヨウコはそちらを振り返る。隣のベッドでだらりと横になっているのはシキだ。
 「そりゃ高校入試はやったけどさ、教えてあげる、なんて言えるほど頭よくないもの。」
 ぷうっとむくれて言うと、シキはくすくすと笑った。
 「中学生レベルでしょ」
 「シキは教えてあげられるのかもしんないけどさ。」
 「そうね、ツバメの問題集も脳トレにはなるわね。
  連立方程式なんてあまりにも久しぶりすぎて、思い出すのに時間かかっちゃったわ。」
 どうやら本当に教えているらしい。
 「ツバメちゃん、シキに勉強見て貰ってるの?」
 ツバメの方を見ると、ツバメははにかむ様に微笑んだ。
 「はい。シキ様の教え方とってもわかりやすいんですよ。」
 そう言うツバメはとても幸せそうで、いつにもまして可愛らしく眩しく見えた。
 「そう……そうなのね。でもね、悩むときはヨウコさんも一緒に悩むからね。いつでも言ってね。」
 「ふふ、ありがとうございます。」
 「ツバメちゃん、こっちに戻ってきて早々受験勉強って偉過ぎるもの。」
 腕が動かせるようになった程度の頃、ツバメに真っ先に頼まれたのは受験参考書で、頑張り屋さんだなあと思ったのは数日前の事だ。
 「いえ、そんな事は……志望校決めたのは良いんですけど、ブランクがあったので、出来るとこから頑張らないといけなくて……」
 添えて出された高校の名前は、ヨウコでも知っている進学校だった。
 「ツバメちゃんレベルたっかい」
 「ええと」
 シキ様と同じ高校なんです。
 恥ずかしそうな小さな声で囁かれて、またヨウコはシキの方を見た。
 「……マジで?」
 「何よ、似合わないって?」
 「いや……」
 確かに、シキの頭の回転は速かった、気がする。やる気があれば。つまりそう言う事なのだろう。
 「……少し納得した。でも、そこなら使う駅近いし遊べるね。」
 「そのためにはまず身体動くようにならなきゃいけないんだけどね。」
 だらりと伸びた身体を重たげに持ち上げながら、シキは少しだけ身体を起こす。
 「今どんな感じ?」
 「少しは歩けるようになったよ。物につかまりながらだけど、とりあえず部屋の中くらいなら。」
 まだよぼよぼだけどね、とシキは言うが、指一本まともに動かせなかった頃からすると、かなりの進歩だ。
 「そう、順調なんだ。よかった。」
 「全部ヨウコのおかげだよ。本当にありがとう。」
 シキは改まって、動かせる分だけの礼をする。睫毛を伏せた姿に、ヨウコは慌てて首を振った。
 「いやいや、みんなが協力してくれたからだし。みんなが頑張ったからだし……」
 「ヨウコさん、私も感謝しています。こんなにいっぱい、こっちに戻ってからも助けてもらってて。」
 ツバメもすっと頭を下げる。
 「もう、ツバメちゃんまで改まっちゃって。これくらいお安い御用なんだから。必要なものあったらまた言ってね。」
 なんだか照れてしまって、ヨウコは慌てて踵を返した。
 「それじゃ、ヨウコさん、まだ頼まれものあるから」
 「ヨウコ。前から思ってたんだけど、アンタなんであんなに頑張れたの?」
 ゆっくりしたシキの声が、ヨウコの背を引き留めた。
 だが、質問の答えは頭から決まっていて、今更聞かれても少し困る。
 「そんなの、ほっとけなかっただけだよ。」
 振り返って肩を竦めると、シキは少しだけ眉を寄せた。
 「やったことに対する理由としてはちょっと弱くない?何回も敵視されて死地を潜り抜けて針の孔通すような賭けに出て、それでも頑張れたのって、そんなお人好しな理由だったの?」
 言われてみれば確かに……確かに結構頑張った気はする。全部、ほっとけなかったから、やれた事なのだろうか。
 「……よくわかんない。よくわかんないけど、それしか思いつかないや。」
 考えながら答えると、シキは少し拍子抜けしたように息をついた。
 「……そう。まあいいわ。また顔出してね。」
 ゆるりと上がる手は、シキのリハビリの成果だろう。
 「もちろんよ。じゃあね、シキ、ツバメちゃん。」
 手を振り返すと、ヨウコはそのまま部屋を出たのだった。

 ここはNPG機関。1000近い生体脳による発電を行っていたこの機関には、もう水槽に入った脳はない。
 ただ、身体の操作がおぼつかないリハビリ患者が1000人弱、この施設でリハビリに励んでいた。皆、生体脳として発電をさせられていた、元帽子世界の住人たちだ。
 永久機関の力で体を作り、受肉できたところまでは良かったのだが、長らく脳が物理的な身体を動かしていなかったこともあり、皆身体を動かすことに四苦八苦することになっていたのだった。
 だが、身体を戻した後は、少しずつ身内との連絡も取れ始めていたらしく、瀕死だった娘の元気な姿に泣き崩れる家族も、そこここで見られるようになっている。
 ヨウコは、帽子世界から出たあと、体が思う様に動かない仲間たちの為に、ここ数日はお使いや外出などをやっていた。リハビリの進み具合は人それぞれで、あの世界に初期からいた者は未だにベッドから動けずにいる者もいる。情報交換や何かもヨウコが買って出ているところだった。
 「次はー……ショコラね、ショコラはあっちの奥だっけ。」
 廊下を歩きながら、先程のシキの質問を思い出す。
 頑張れた理由。そんなものはよくわからない。ただ、なんだか恩返しみたいな気持ちはあったような気がする。
 記憶は持ち込めなかったが、覚えているだけで6回、いや7回、皆いつも優しくしてくれた。チャティの帽子のクマはその証だった。
 「あ、ヨウコ!」
 前の方から唐突に声がした。顔を上げると、パジャマ姿のショコラがドアに寄りかかるように立っていた。
 「ショコラ!もう動けるの?今から行こうとしてたのよ。チョコレート頼んでたでしょ。」
 「あ、持ってきてくれたんだ!?ありがとう!」
 よい、しょ、とバランスを取って、ショコラは壁伝いにゆっくりと歩き出す。
 「待って待って、私がそっちに行くわ」
 「いいの、これもリハビリだかんね。そうだ、ヨウコ。メルの部屋わかる?」
 「わかるけど……行くの?」
 よろよろしているショコラの足元はまだまだおぼつかない。
 「うん!メル、きっとまだ動けないんでしょ?だったらこっちから遊びに行こうかなって。」
 「そう。それじゃ一緒に行こっか。メルは上の方の部屋よ。」
 疲れたらおんぶしたげるわ、というと、ショコラはこれもリハビリだから!と笑った。
 腕と肩を貸すようにして、ゆっくりとショコラに合わせて歩を進める。エレベーターホールにつくと、ヨウコは一番上の階のボタンを押した。
 「本当に上なんだ。」
 屋上行き放題じゃん、とショコラは目を丸くする。
 「個室だからメルはずっと文句言ってるけどね。」
 「ひゃー、豪華!あ、でもずっと一人になっちゃうのか。」
 それは寂しいかも。
 少し眉を寄せるショコラに、何となく記憶が引っかかれた気がした。ショコラを悲しませるような結末にしない、と思って頑張ったのはついこの間の事だ。だが、その前に何か、もっと悲しいものを見たような気がする。思い出せないそれはなんだったのだろうか。
 チンッ
 「あ、ついたねー」
 軽快なベルの音とショコラの声がヨウコを現実に引っ張り戻した。
 エレベーターを降りると、明るい通路が目の前に現れる。まばらに並んだドアも心なしか高級感がある、VIPルームのようなフロアだった。
 「こっち来た時、この辺には来なかったからなんか新鮮かも。豪華ー。」
 ショコラは物珍し気に辺りを見回す。
 「そう言えば確かにそうよね。あんまり記憶に……」
 ……いや、屋上に上ったことはある。メルの物語の時に。屋上で二人で話をしていた。
 『管理人でいる限りいつかは帽子に侵食される だから帽子になるしかねえんだ』
 廊下の奥の非常階段から上がったのだ、確か。少し暗い非常階段があって……。
 「……ショコラが居たんだわ」
 「いきなりなあに?ショコラは確かにここにいるけどさ。」
 怪訝そうに見上げられて、ハタと我に返る。
 「いや、こっちの話。前に来たことあるような気がしたからさ。」
 「メルの部屋知ってるんだったら来たことあるでしょ。」
 「まあそう、そうよね。」
 首をかしげるショコラに肩を貸して、メルの部屋の前までゆっくり歩く。
 思い出した。
 もう少しだけ一人にさせて欲しい、というメルを置いて階段を降りようとしたら、ショコラとすれ違ったのだ。
 駆け上がるショコラとすれ違ったのは一瞬。うつむいていた顔はよく見えなかった。それでも、ショコラが泣いていたのは解った。それは覚えている。
 そして、頭に被さったウエディングベールを抱きしめて、声も出なくなるほどに泣いていた姿も。
 メルといる時のショコラはずっと能天気な顔をしていたけれど、多分あれはずっと……耐えていたのだと今更気づいた。
 ただ、メルの物語の結末は、ヨウコ自身に帽子が与えられた記憶がある。でもこの記憶は、結末が少し違う。
 もしかして、自分は、メルの物語を二度、見ていたのではないだろうか。
 「ねーヨウコ、メルの部屋ってあれ?」
 ショコラの声に顔を上げる。ショコラがよろっと指差したひと際品のいいドアは、確かにメルの部屋だった。
 「そうそう、あの部屋。ああ、メルは本当にまだ動けないから」
 「知ってるよ。メルは動けたら様子見にくらいは来るはずだもん。
  それに、帽子世界にいた時間が長い人ほど動けないんでしょ?」
 言われて、そうみたいね、と頷くと、ショコラだってそのくらい知ってるんだから、とショコラは少し誇らし気に笑った。
 品のいいドアの前に立つ。
 ショコラはどん、とん、とうまく力の調節の効かない手でドアを叩いた。
 「メルー、ショコラだよー開けていい?」
 「ショコラだあ?!お前もう動けんのかよ!」
 入れよ、と声が掛かる。ドアを開けると、メルは窓際のベッドの上でげっそりと身体を横たわらせたままこちらをゆるりと向いた。
 「なんだ、よっぼよぼじゃねえか。」
 こちらを確認するなり困ったように笑って息をつく。
 「でももう動けるんだからね!」
 「そうだな、ヨウコの肩を借りればな。」
 メルは笑いながら、こっちに来いよ、と声をかけた。同時にベッドがメルの上体を支えるように動き出す。
 「はーい、おじゃまします!」
 ショコラは声だけは元気に、だけど身体はゆっくりと、メルの方に向かう。
 部屋の中を見回すが、今はメルだけのようだった。
 「メイムさんたちは?」
 普段は居るメルの親の名前を挙げると、メルは、さあな、と息をついた。
 「研究所の方じゃねえのか、知らねえけどよ。」
 部屋にあったひじ掛けと背もたれ付きの高級そうな椅子をベッドサイドにセットしてショコラを座らせる。ショコラは疲れもあったのかぐったりと椅子に身体を預けた。
 「ショコラ、チョコどうする?」
 鞄の中にあった頼まれもののチョコを取り出す。
 「食べる!」
 ショコラはぱあっと目を輝かせて手を伸ばした。それを見てメルがヨウコの方を見上げる。
 「なんだヨウコ、ショコラのパシリやってたのか?」
 「まだみんなあんまり動けないからさ。メルも何か用事あったら遠慮なく言ってね。」
 「ありがとよ。まあ、今は……とりあえずショコラを助けてやってくれ」
 言われてショコラの方を見ると、ショコラは震える指でチョコレートの開け口に悪戦苦闘しているようだった。
 「まだ難しいのね。開けるから貸して。」
 「もうイケるとおもったんだけどなあ。」
 ショコラは、少し眉を寄せてチョコレートの袋を差し出す。
 「キャンディチョコ、個包装だけど大丈夫?」
 その袋を開けて一つキャンディのかたちのチョコを渡すと、ショコラはひじ掛けも使って器用にチョコを取り出した。
 「大丈夫みたい。」
 うん、とチョコを口に入れると、メルがそれを鼻で笑う。
 「食い意地の勝利だな」
 ショコラはそれを気にすることもなく、二つ目のチョコを取り出すと、メルの口元に差し出した。
 「メルはまだ難しいよね?はいあーん」
 「……ぐっ」
 少し悔しそうに、それでも素直に口を開けているメルが何だか可笑しい。
 「まあ積もった話もあるだろうし、後で迎えに来るわね。」
 チョコレートを一つ頂いて口に入れると、ショコラとメルは少し驚いたようにこちらを見た。
 「もう行くのか?」
 「うん。ちょっと確認したい事があってさ。またあとで来るから。」
 頷くと、ショコラがよいしょ、とチョコを差し出した。
 「ヨウコ、ありがとうね。」
 「どういたしまして。じゃ、後でね。」
 手を振って、部屋を出る。
 「ヨウコ、結末を知る能力が何かあったのかなあ」
 「ショコラ、お前まだそんなこと言ってんのか?」
 後から聞こえてきた声に思わず吹き出しながら、ドアを閉める。
 次の行き先は、決めていた。
 あの奥の非常階段、そして屋上だ。
 消えてしまったのか覚えていられなかったのか、よくわからない記憶に、近づけるような気がしたからだった。

 薄暗い非常階段から屋上へ向かう。
 そう言えば、これをやるのは現実には初めてだった。前に見たのは、メルの物語の時。その後は来る機会もなかったし、正直なところ忘れていた。
 でも、さっき少しだけ思い出した記憶のカケラは、間違いなくこの階段に落ちていたのだ。
 階段の上まで到着すると、屋上に続くドアから光が差していた。前もそう言えばこんな風だった気がする。あの時もそこだけが明るかった。スポットライトみたいな光が差していて……その中にナタリーがあのベールを抱えてうずくまっていた。
 また知らない記憶が蘇る。
 気丈だと思っていたナタリーがボロボロと涙をこぼす姿を見た、そんな記憶。確か、そう、あの時はラヴィが帽子になったのだ。
 「……私、何回繰り返してたんだろう」
 そして、どれだけ忘れてしまったのだろう。きっと、結末も含めて大事な記憶、だったはずなのに。
 自分はそんなナタリーに何か声をかけたのだろうか。思い出せない。無力感は覚えていて、その光景も知っているのに、自分の行動は一切思い出せなかった。そして記憶もその辺りでふっつりと切れている。
 もしかしたらその後、別の物語を辿ったのだろうか。途切れた記憶を説明できるのはそれくらいしかない。
 頭を振って前に進む。ドアを開けて屋上に出ると、空には明るい青空が広がっていた。
 メルの物語の時は凄い夕焼けだったな、と思い出す。こんな元気のいい青空ではなくて、終わりゆく世界みたいなオレンジ色だった。
そして日が沈んだ頃。……屋上で壊れた人形のようなメシュレイアを見た記憶がある。茫然と空を見上げていた。空っぽの顔で、瞳には何も映していない。ただ、指先だけが小さなティアラをきゅっと握りしめていた。あの時は、ドーラが帽子になったのだった。
 知らない記憶と思い出してしまった光景は、屋上を少し進むごとに、忘れていたのが不思議なくらいの鮮明さで蘇る。
 高いフェンスに指をかけ、なんであなたまで私を置いていくのかと叫んでいたメリッサを覚えている。
 ずっと一緒、ってこんな意味だったんですか、とティアラに問いかけていたラヴィを知っている。
 『せめて少しだけでも楽になれますか』
 屋上のフェンスを越えた端っこで、静かにティアラを抱きしめていたのはツバメだった。
 その姿が見えたような気がして、くっと息が詰まる。いや、そんなわけはない。さっき参考書を渡してきたのだし、シキは帽子になっていないのだから。ぎゅっと目をつぶって、動揺をやり過ごそうとするが、瞼の裏が熱くなるのは自分では止めることができなかった。
 その後の事はわからない。記憶はどれも同じようにその辺りで途切れている。
 だけど、間違いないのはその時、その全てで、自分は何もできなかったのだということだった。

 NPG機関の研究室は、今でも地下が本体だ。
 病室のフロアとはかなり趣の違う近未来的な造りの廊下を、ヨウコは歩いていた。行先は通路の奥だ。しかし、ドアを叩こうと手をあげると、その先でドアが開いた。
 「あら洋子さん、こんにちは。チャティに会いに来たのね。」
 顔を出したのは、白衣姿のユノーだった。
 「こんにちはユノー。……ちょうどよかった、ユノーにも聞きたい事があったの。」
 「何かしら?」
 「あのさ、ユノーは何回もあの……物語を繰り返してたんだよね?その回数とか結末とか、覚えてる?」
 聞くと、ユノーは少し目を丸くして、そしてふっと微笑んだ。
 「中に入って。ゆっくり話を聞くわ。」
 「今から出かけるんじゃなかったの?」
 「構わないわ。あとでも問題ない話だから。」
 促されて中に入る。中は大きな装置と実験機器が並ぶ部屋だ。その合間にデスクがいくつかおいてあり、それぞれにPCとファイルなどが置いてあった。その外れにはミーティング用と思しきテーブルセットが置いてある。
 「ヨウコ!よくきたの!」
 デスクの一つから声が掛かる。声の主は机の上に並んだファイルの上で足を揺らしているピンクの妖精。チャティだった。
 「チャティ、調子良さそうね」
 「もちろんじゃよ」
 チャティは他の住人達と違い最初から問題なく動くことができたものの、物理的な存在自体が説明しにくい状況で扱いと処遇が定まるまではこちらに居ることになっていた。とは言うものの、現状住人は全員ここでリハビリ中なため、自由が利くチャティはそんなに退屈もしていないらしい。
 にこにこ機嫌のよいチャティの手前で、ユノーはヨウコをミーティング用のテーブルに案内した。
 「チャティも来てくれるわね?」
 「ん?よいぞ。」
 ふよふよとチャティがテーブルに飛んでくる。ユノーはティーサーバーの紅茶をさっと入れると、自分の分も含めてテーブルに持ってきた。
 「さて洋子さん。何回私がシミュレーションを繰り返したかって話だけど」
 「な。」
 チャティが目を見開く。
 「回数が多すぎてはっきり言って覚えてないわ。結末もパターンとしては覚えてるけど、その全ての詳細を覚えてるわけじゃない。
  記録もあまり残さなかったし……私もちゃんと聞いたことはなかったわね。洋子さんは何度繰り返したの?」
 すっと切り込まれて、思わずヨウコも目を見開いた。でも、話したかったことは間違いなくそれだ。一つ頷いて言葉を紡ぐ。
 「私は、六回繰り返して、七回目で本番だった、って思ってたの。
  ……でも、違うみたい。さっき、思い出したの。少なくとも、私はあと6つ結末を知ってる。誰かが帽子になってしまってるの。もしかしたらもっとあったのかもしれないわ。」
 そして、チャティの方を見た。
 「チャティ、正直に答えて。私は何度シミュレーションを繰り返したの?……なんで前の記憶がなくなってたの?」
 チャティに不信を抱いたわけではない……と思う。ただ忘れていた記憶は、忘れていたのが不思議なほど衝撃的だった。あれ以上に何度も繰り返していたこと自体を忘れていたのも不思議で、チャティに直接聞かないと、と思ったのだ。
 チャティは、眉を寄せて小さく息をついた。
 「少なくとも6回ではない。ヨウコはあの6人の物語を十数回は繰り返しているはずじゃ。」
 「なんで言ってくれなかったの!?」
 思わず声を上げると、チャティは困ったようにヨウコを見上げた。
 「その点は済まぬ。ただ、あれ以前のは全体的に酷な記憶ばかりじゃった。それに、初期の繰り返しの物語は精度が低かった。」
 だから、忘れたいと願うのならば、忘れたままでも仕方ない。そう考えたのだという。
 「結末の違い……あれは落ちたタイミングによる違いもあるが、なによりおぬしの分析精度による違いじゃ。繰り返しでヨウコの分析精度が上がった結果、おぬしが覚えていたあの6つの物語が生まれた。」
 メルだけは結末が変わらなかったんじゃがの、とチャティはかすかに顔を伏せる。そして、これだけは信じて欲しい、とまた顔を上げた。
 「わしには他人の記憶を忘れさせたり消したり、などという芸当はできぬ。
  誓って、おぬしの記憶はいじったりしておらん。
  だが、紅茶シミュレーションには過去の記憶は持ち込めぬ。あの世界自体も記憶は消す方向で動いておった。
  確たる事は解らぬが、接続の仕方や、自我形成のタイミングや何かで欠けてしまった可能性はあるじゃろう。」
 口を結んだままでいると、チャティは一つ息をついた。
 「ただ、記憶というのは紐に繋がった形で保存されておるらしい。どこかで記憶の紐がつながった瞬間連鎖的に思い出してしまうというのはあり得ない話ではない。今回思い出したのはそう言う事じゃと思う。」
 混乱させてしまったようですまぬ、とチャティはまた頭を下げた。
 小さな頭の上の触覚は伏せられ、辛そうに小さくなっている。
 「……チャティ。顔上げて。」
 恐る恐る、顔を上げるチャティの鼻先を指でつつく。
 「む」
 「そんなに謝らなくても良いよ。」
 チャティはチャティなりに私の事考えてくれてたんでしょう。そう言うと、チャティの瞳がかすかに潤んだ。
 「でもね、どんなに精度が低くても、記憶は記憶だし、忘れたほうがいいような記憶はあっても、要らない記憶なんてないの。
  だから、忘れてるって気づいてたなら、……教えてくれた方が嬉しかったかな。」
 「……悪かった。」
 「今度からでいいからさ。まあ、もうないと思うけど。」
 疑問は解けた。
 そう言えば前にシキが『忘れちゃったんじゃないの』と言っていた、シキが帽子になった話。あれはきっとこの結末の事だったのだろう。そう思うとなんだかすっきりする。
 ふ、と息をついて紅茶を口にすると、ユノーがそうね、と切り出した。
 「チャティ。あなた一つ誤魔化してない?」
 「誤魔化す?」
 人聞きの悪いことを言うでないわ、とチャティは口をとがらせる。
 「そうね……酷な記憶と言っていたわね。誰かが帽子になって、現実世界に帽子世界の住人を召喚し続ける結末。
  あの六人で、立て続けにその結末を見たの?」
 「そうじゃ。」
 「……恣意的なものが働いていない?」
 ユノーはぴし、とチャティを見据えた。
 チャティは一瞬目を見開き、また目を伏せる。ヨウコはそのしぐさに何かあった事を直感した。
 「チャティ?」
 「……ユノー、おぬしもその発想があったんじゃな。」
 「何度も繰り返せばそれなりに学習するし、なりふり構う気もなかったもの。」
 チャティとユノーの謎の会話に、ヨウコは交互に二人を見比べる。
 その様子に気づいたのか、チャティは、はああ、と息をついた。
 「隠し事はしない。さっきそう話したところじゃったからな。
  ……初期のシミュレーションではヨウコの分析精度が低かったのは本当じゃ。だが、酷な結末になるタイミングから始まる物語を立て続けに見せたのは、情に訴えかけてでもなんとか協力してほしかったから、と言うたら信じるか?」
 今度はヨウコが目を丸くする番だった。
 「タイミングとしてはほぼ最後のチャンスだったものね。」
 言って、ユノーも紅茶をすする。
 「……ただ、何か……ウイルスに良心というのもあれじゃがな、あまりにも手段を選んでないと思ってはいた。
  じゃから、ヨウコがそれらの事を忘れているのに気づいた時正直少しほっとしたんじゃ。」
 ……済まぬ。
 今度こそぺしょん、となってしまったチャティにかける言葉は思いつかなかった。
 「ヨウコさん。私が言うのもなんだけど、あまり責めないであげてね。」
 チャティを見て口をパクパクさせているヨウコに、静かにユノーが声をかける。
 「……別に、責めようとは思わないけど……なんかびっくりしちゃって……」
 言うと、ユノーはそうよね、と頷いた。
 「あなたは文字通り最後の希望だったの。
  外から来たあなたが関わる時だけ、計算は少しずつ狂って、知らない未来を見る事が出来た。」
 だが、そのためにはヨウコが積極的にこの件に関わる事が、第一歩だったのだ。
 「多分、私もチャティも、ヨウコさんが思うよりもずっと強く、あなたの存在に期待していた。ここでうまくいかなかったら、希望は潰えてしまう、くらいの事は思っていたわ。」
 ユノーはそう言うと、ヨウコの方を真っすぐに見つめた。
 「だから、結果オーライってことで大目に見てあげてくれないかしら。」
 「まあ、結果オーライなんだけど……」
 「ね。」
 ふっと微笑むユノーに釣られて、ヨウコも表情を緩める。そして、チャティの方に向き直った。
 「チャティって、意外と腹黒かったのね。」
 「……返す言葉もない。」
 頭を下げっぱなしのチャティの頭を指先で撫でると、チャティは上目遣いに顔を上げた。
 「でも、チャティがずっと一生懸命だったのは解ってるの。きっと私が誰よりも知ってるわ。
  だから結果オーライよ。肝心の記憶は今まで忘れてたんだけどさ。」
 そう言って笑うと、チャティは瞳を潤ませた。
 「済まん。じゃが、ありがとう、ヨウコ。」
 涙目で飛んできてくっ付いてくるチャティの頭を、はいはい、と撫でる。
 「さっきさ、シキのとこに行った時にね、なんであんなに頑張れたの、って言われたの。」
 ほっとけなかっただけ、と言ったら、それはやったことに対して動機が弱い、みたいなことを言われた。
「私があの世界に行った時、皆優しかったからさ、恩返しみたいな気持ちだったのかなとも思ってたんだ。
 でも、多分ね、頑張れたのは私だけの気持ちじゃなくて、あの世界をなんとかしたい、悲劇をなくしたいっていう、チャティやユノーや、みんなの気持ちが……あと根回しが後押ししてたのかなって、今、ちょっと思った。」
 ふふ、と笑うと、チャティはまた眉を寄せる。
 「大丈夫よ。それに私、チャティにはこんなの吹っ飛ぶくらい迷惑かけたしお世話になったし。
  何より、この件に関われて嬉しいって思ってるからさ。」
 「すまぬな、ヨウコ。ありがとう……。」
 まだ反省でしょげ気味のチャティをテーブルの上に戻して撫でる。チャティは、触覚をぴょこんと揺らしてヨウコを見上げた。
 「はいはい、もう謝らなくていいよ。私も何だかスッキリしちゃったし。」
 残っていた紅茶を一気に流し込むと、頭の中もすっと切り替わったように明るくなった。
 「ユノーもありがとう。紅茶もご馳走様。」
 「どういたしまして。」
 良い顔になってよかったわ、とユノーは笑う。
 「さっきドアの前に居た時、なんだか思い詰めてるみたいだったから。」
 「うそ、そんな顔してた?!」
 ユノーは、ええ、とあっさり頷き、紅茶のカップを持って行く。その背中はいつかのような冷たいものではなく、最初に知った優しくて知的な雰囲気を纏っていた。

 ユノーのいる部屋から出ると、ヨウコは一つ伸びをした。
 酷な記憶を思い出しても、今は皆幸せに向かって一歩踏み出せたところで、さっきほどショックを受ける事はない。
 辺りは明るいし、お日様はまだある。ショコラを迎えに行くにはまだ早いだろう。
 よし、と頷いて一歩踏み出す。
 目的地はシキとツバメがいる部屋。
 ちょっとしか時間が経っていないのに、山のように増えた話したい事を携えて、ヨウコは足取りも軽く歩き出したのだった。


確かヨウコさんの話を書こうというお題だったと思う。TRPGのラストでみんながリハビリしてる話があったのと、旧版の記憶は覚えててほしかったのと、チャティやユノーにとっての最後の希望であるとこのヨウコさんって、書きたい事大体詰め込んだような気がします。
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