ガレージでちょっと塗装作業をしていたところだった。特に問題なくパーツを塗り分け、あとは仕上げ、と思ったところで気が抜けたらしい。黄色の塗料の缶に引っかかって蹴り上げて、しりもちをついたついでに上からかぶってしまったのは不幸な事故だ。犠牲は空っぽになった塗料と自分の服とエプロン。靴は中まで染みるような靴は履いていなかったが、これも作業用に回すしかないだろう。あたりは派手に飛び散ったペンキの黄色で酷い有様だ。
「ドーラお姉ちゃん大丈夫!?何かすごい音したけど!!」
ばたばたとショコラが入ってくる。
「大丈夫。ちょっとペンキにひっかかっちゃって」
「うっわひっどい。ええっと、タオル!あと雑巾!持ってくるね!!」
ショコラはすぐにバタバタと走っていった。セーラお姉ちゃんードーラお姉ちゃんが大変なのーー!!と声はあっという間に遠のいていく。
ひとまず、と散らばった缶を拾い集めて上にあげる。幸い黄色以外の塗料は無事だが、コンクリートのところは水である程度洗い流すくらいで妥協するしかないだろう。とりあえず手を洗い、デッキブラシをガレージの奥からひっぱりだすと、ドーラはべとべとな恰好のまま、蛇口をひねって掃除にかかった。
「おーいドーラくん、大丈夫かね?」
ガレージの窓のほうから声がする。
「ああ、ダリア。ちょっと塗料ひっくりかえしちゃってさ。」
「そりゃ大変だ。片付け手伝おう。」
よいせ、と、ダリアは行儀悪く窓のほうから入ってくる。その恰好は、あまり見たことのないつなぎの作業着だ。最近買ったのだろうか。
「うわ、ベッタベタだな。先にシャワー浴びて着替えた方がよくないかね。」
ダリアはこちらを見るなり顔をしかめた。
「この格好だと家にも入れないよ。廊下をペンキまみれにするわけにはいかないし。」
今は雑巾とタオル待ちだ。
「確かに、シャワールームに窓から入らないと無理だな……そうだ。」
思いついたような顔で、ダリアは乾いたところに移動すると唐突に服を脱ぎだす。
「何やってんの」
言っている間に、作業着の下から普段の恰好をしたダリアが現れた。
「何やってんのとは酷いな。ほら、あっちで着替えてくるといい。」
外からは見えない物陰のほうを指さして言う。
「それでさっさとシャワー浴びてきたまえ。」
「汚しちゃうかも」
べたべたの服をつまんで言うと、ダリアは気にするなと首を振る。
「多少は汚れた方がそれっぽいからね、問題ないよ。」
「でも」
言葉の続きは、どたばたした足音とショコラの大声で消し飛ばされた。
「ドーラお姉ちゃんー!雑巾とタオル持ってきた!!」
「ナイスタイミングだショコラくん。」
雑巾とタオルと作業着が手渡される。
「さっさと着替えてシャワーを浴びておいで。片付けはそれからでもいいだろう?」
雑巾とタオルで少しは確かにマシになるだろう。ドーラはタオルと雑巾を蛇口に着けて湿らせると、ぎゅ、と絞った。
「ありがとう、じゃあお言葉に甘えて」
ばたばたと物陰に隠れるようにガレージの奥に行く。そして、その場にペンキまみれのエプロンとシャツとパンツを脱ぎ捨てた。湿らせたタオルで全身をとりあえず拭いて、さっき渡された作業着を履く。
グレーともブルーともつかない色の作業着は、まだ新しいようで布がピンと張っていてごわごわしていた。おそらく買ったばかりだったのだろう。大体これは本来下着の上に着るものではない。
そして、ダリアが着ていただけあって、裾も袖も丈が長い。裾は四段くらい折ってふくらはぎまでの長さにし、袖はグイッとまくり上げて、ぎりぎり内部は無事だった靴を履く。
「ありがとうショコラ、ダリア。ちょっと先にシャワー浴びて着替えてくるね。」
「はーい。気を付けて。」
靴は入り口で脱いで、バタバタと家へ駆けこむ。ほかの場所まで汚さないように細心の注意を込めて、だ。
シャワー室に駆けこんで、荒く息をつくと、思い切り息を吸い込んだ瞬間ふわっとダリアの匂いがした。
若干オーバーサイズの服からする、ダリアの匂い。なんだか昔もこんなことがあったような気がする。確か、そう、初めて作業着を着た時だ。
思い出して、少し納得して、作業着と下着を脱ぐ。
シャワーの蛇口をひねってお湯を頭からかぶりながら、ドーラは少し……いやかなり昔のことをなんとなく思い出していた。
***
あれはまだセーラが帽子に食われる前……まだ誰も犠牲が出ていない平和な頃だった。
「ダリア今日いる?」
「ダリア様 ……今日ハ在宅デス」
「ありがと。」
ドーラは、デコイたちに主の居場所を聞きながら、機械の世界を歩いていた。交友関係も広くいろいろな場所を飛び回っているダリアだが、デコイの言葉を信じるならば今日は自分の世界に居るらしい。
「ホームかな、研究室だと解んないな……」
ちょこちょこ遊びには来ているものの、ホームはともかく研究室は場所すらわからない。入れてもらえたためしがないのだ。
「あとは工場?」
彼方に見える工場を眺める。歩いていくのは面倒だなあ、と思いながら、ドーラはひとまず近くに見えるホームのほうに目を移した。
「とりあえずこっちから行くか」
居なかったらその時はその時だ。誰か来るまで待たせてもらうつもりでダリアのホームへ向かう。
とはいえ、機械の世界はドーラにとっては楽しみの多い場所だった。通り道の意匠やデコイたちのデザインを眺めながら、機構や仕組みを考えてみたりするだけでも飽きないのだ。人形を作るのに活かせそうなものはいくらでも目に入る。ロボットのようなデコイが多いが、たまにいるからくり人形みたいなのは正直持って帰りたいくらいだった。ダリアの力で作っているのかな、とは思うが、それとは別に何か仕組みがあるような気配もする。デコイにつくりものが混じっている気配がするのだ。
コトコトと歯車を鳴らして歩いていくからくり仕掛けの人形を観察しながら、ホームへ入る。
「ダリア、いる?」
「ん、ちょっと待ちたまえ」
奥から声が聞こえてきて、しばし。
出てきたのはなんだか完全防備のダリアらしい人だった。
らしい、というのは、ゴーグルとシールドで顔が見えなかったからである。着ているのは何かとても頑丈そうなグレーのツナギの作業服。両手はがっちりグローブがはめてある。
「何その恰好」
「見ての通り作業着だよ。ちょっと作業中でね」
奥のほうを見やるが、そちらには分厚い扉が見えるだけだ。
「見てもいい?」
「構わないが……その恰好では少し危ないな。ちょっと来たまえ。」
ダリアは扉を開けると、ちょいちょいと手招きした。続いていくと、どうやらここは何かの前室らしい。先にはまた扉があるが、この部屋にあるのは業務用にしか見えない無骨なロッカーだけだ。ロッカーの中には工具や機械が整頓されて置いてあり、上のほうには作業着もかかっている。物珍し気に眺めるドーラをよそに、ダリアはハンガーにかかっていた黄土色の作業着を取ると、ほい、とドーラに渡してきた。
「とりあえず服の上からこれを着たまえ。一応きれいにはしていると思うよ。」
少しぶかっとした作業着は、確かに上から着れそうにはしている。
「ありがとう。そんなに危ないの?」
「その恰好だと火花で火傷しかねないからね。作業は安全第一だ。」
火花?と思いつつも、ドーラは素直に作業着を身に着ける。丈の若干長すぎるズボン部分に足を通し、やっぱり丈の若干長い袖に腕を通し、ぷちぷちとボタンを留める。機械油の匂いの底にダリアの匂いがするようで、なんだか不思議な感じだ。
「……ちょっと大きかったかな」
ダリアは目だけで笑いながら、その恰好を眺めて言った。
「メルくんみたいだ」
「うるさい」
笑いを押し殺すのをあきらめたダリアに頬を膨らませ、地面についてしまってるズボンの裾を3段ほど折る。次いで左袖、と思ったら、ダリアが手を出してきた。
「何?」
「こっちが速い」
さくさくと両袖を二段ほど折られると、かなり動きやすくなる。
「次はこれだ」
ほい、と皮のグローブを渡される。
「いったい何をしてるの?」
グローブをつけながら聞くと、ダリアはこともなげにゴーグルを渡してきた。
「金属加工だよ。」
ゴーグルまでつけると、次の扉が開く。
「来るといい。」
招かれるがままに、ドーラは先の部屋へ入った。そういえばここに入ったことはなかったような気がする。そもそもさっきのロッカーだって初めて見た。
わくわくしながら先へ進むと、そこは町工場のような様相を呈していた。ねじ切りだの万力だのの小さな工具から、旋盤だのグラインダーだのまでそろっていて、ここだけでロボットが1から作れてしまいそうだ。
「わあ……すごい」
いや、作れてしまうのだろう。現にさっきのからくり人形の部品と思しき何かが見えている。
「ようこそうちの作業場へ。」
気取って言ったダリアは満足げに笑うと、ゴーグルとシールドをつけて、グラインダーを手に取った。近くにあるのは何か穴の開いた金属で、細かく図面が引いてある。
「ダリア、これ帽子の力じゃなくて、手作業で作ってるの?」
本来、というのは何だが、管理人ならばこんなに手間をかけなくても、願えば一瞬のはずだ。しかし史上最高と噂される管理人はあっさり頷いてみせた。
「そうだよ。材料はクリスタルだがね。」
「願えばすぐに出来るのに」
言うと、ダリアはチッチッと指を振る。
「細かい設計なんかは、自分で作りながら調整しないと、どこかで無理ができてしまうんだよ。無理ができた分は帽子のリソースを食ってる、というのが私の読みで、無駄は極力省きたいのが私の方針なのさ。」
「そういうものなの……?」
傍で図面の引かれた金属塊を眺めてみても、言っている事がよくわからない。よくわからないが、無駄は省きたいというのは理解する。
「……もしかして、最初に丁寧に作れば長持ちする、とかそういうやつ?」
「お、いいね。いいセン行ってる。ほら、無駄な電力を使わないように設計したら、電池も長持ちするだろう?」
「それならわかる。」
ほめられたのと、なんとなく合点が行ったのでほおが緩む。
「やはりドーラくんは将来有望だな。」
ぱふ、と頭が撫でられる。ダリアは、さあて、と金属塊に向き合った。
「火花が散るから気を付けてくれ。」
「了解。」
ウィイイイン、とグラインダーが鳴る。ダリアが回転体を金属に押し当てると、火花とともに金属が削れていく。集中しているのだろう、手元には一寸の狂いもなく、スムーズに金属は削られていく。魔法のようだが、完全なる手作業だ。
「道具も手作り?」
「いや。微調整はしたがね。」
ある程度削ってこまごま確認しているダリアに聞くと、こともなげに答えた。
「残したいのは道具じゃないからな。」
まあ、そのうちちゃんと自作するがね、と笑う。
「さてあと少しだ。……ドーラくんもやってみるかね?」
「いいの?」
聞くと、ダリアはうん、と頷いた。
「ちょっと削るくらいなら問題ない。道具の使い方も体験してみる価値はあるだろう?
これはグラインダー、見ての通り金属を削るやつだ。こっちのスイッチでONとOFFを切り替える。結構負荷がかかるから最初はゆっくりやるんだよ。」
ドーラがグラインダーを受け取り、金属塊に向かい合うと、ダリアはほいせ、とグラインダーと金属塊を抑えるドーラの手に自分の手を添えた。
「使ったことは?」
「姉さんが木工用の小さいのはたまに使ってる。」
それこそ人形の表情の微調整につかうようなもので、歯医者のドリルみたいな小さな奴だ。
「金属用はもっと勢いがあるから気を付けろ。」
添えられた手にぐっと力がかかる。背中に体温を感じて、少しドキドキする。しかし、それはグラインダーのスイッチをオンにした瞬間吹き飛んだ。
「うわっ」
回転の力が強すぎて暴れるグラインダーは、かなり力を込めて持たないと安定しない。ぎゅ、と右手を握られる。
「もっとしっかり持つんだ。削りだしたら抵抗は増えるからな。
じゃあ手の位置と削る位置を確認してくれたまえ。行くぞ。」
「うん」
グラインダーを金属に押し付けると、言われた通りかなりの抵抗と同時に派手に火花が散った。火花の向こうで少しずつ金属が削られていく。そのまま3ミリくらい削ったところで、スイッチが切り替わった。
「大体わかったかね?」
「うん。結構抵抗あるね。」
「手作業だからな。じゃあ次はこっちの分を削ってみるといい。」
金属塊の一か所を示される。それと同時に後ろからダリアが離れた。
「気を付けるんだよ。」
そういいながらドーラの隣に移動する。
ドーラはうん、と頷いて、グラインダーのスイッチを入れた。
***
シャワーにかかり、髪の毛からつま先までしっかり洗い上げてペンキを落としてしまうと、ようやく人心地つく。
やれやれ、とシャワーヘッドを掛けていると、外から声がした。
「ドーラ?着替え持ってきたわよ。脱衣所使ってる?」
セーラの声だ。
「まだだよ。」
返事をすると、脱衣所のほうが開いたようだった。
「着替え中に置いてるわ。ドジもいい加減になさいね。」
「はーい」
返事をしているうちに、ドアが閉まる音がする。
外に出ると、自分の着替えが一そろいとタオルが置いてあった。
「ありがとう、姉さん。」
ドアの外に呼びかけると、はいはい、と声がする。それと同時に足音も遠くなっていった。
頭からタオルで拭いて、新しい服に着替える。そして、ここまで着てきていたダリアの作業服を軽くたたんだ。
なんだか意識してしまったのか、やっぱりダリアの匂いがするような気がする。
思えば初めて作業着を着たころは、我ながら素直で単純だった。今の自分が見たら警戒くらい呼びかけただろう。だが、考えてみれば今も大して変わらない。事情は違えど言われるがまま作業着を身に着けて行動していたのは同じだ。
「……ボクもあんまり変わってないのかな」
独りごちて、畳んだ作業着を抱える。そして、いつかのようにぎゅっと抱きしめた。
ほのかな残り香は持ち主のようにどこか謎めいている。だが、それに慣れてしまった自分も見つけた気がして、ドーラは小さくため息をついたのだった。
家のガレージで爆発とか日常茶飯事かもしれないと思ってます。