だから戦場で配られるレーションはなんともかんとも不味かった。この間の実習で食べた要塞での食事も、なんだか同じような空気が漂っていて懐かしさすら覚えたものだ。
もちろん、美味しいに越した事は無いし、ある程度の量は食べたいとは思う。それに、補給という目的を忘れたような食べ物を食べたい瞬間だってあった。
それはまさに今だ。
現在、フィーの目はキルシェの戸外メニューに釘付けになっていた。
『本日限りの特別メニュー! レモンアイスのサンデー』
レモンである。アイスである。きっと酸っぱくて甘くてさっぱりしていて美味しいのだ。それがサンデーである。きっと普通のレモンアイスよりはるかに豪華に違いない。値段も豪華だ、そうでないと話にならない。そして、その値段ゆえにフィーはここに立ち尽くすしかできなかった。
予算オーバーなのである。
おいしそうだが予算オーバーなのである。
財布の中身は常に若干寂しい上、今はいつもより手持ちも少なかった。今から街道に出てちょっと魔獣狩りして換金して……というのも考えたが、それだとキルシェが閉まりそうな気がする。
でも、食べたいのだ。
むむぅと看板を凝視して考え込んでいると、背中にふらっと何かの気配を感じた。
ぎょっとして振り向く。身体は反射的に武器に手をやっていた……が、その先には。
「え。」
さらに驚いた顔のユーシスがこちらを見ていただけだった。
「……何をやっているんだお前は。」
よく見ればユーシスの手には分厚い封筒のような包みがある。……どうやら隣の本屋から出てきた所らしい。
「……キルシェのメニューを見てたんだけど。」
とりあえずその武器を仕舞え、と目線は如実に言っていて、それもそうかと武器を仕舞う。
「……随分熱心に見ていたんだな。」
「……本日限りの特別メニューだから。」
「メニューをいくら見ていても、食べ物は出て来ないだろう。」
ユーシスの目線がちらりと看板の方に逸れて、またこちらに戻ってくる。
「……お金がないと、食べ物は出てこないし。」
「……それならさっさと諦めろ。」
言うと、ユーシスは息を吐いて、するっと脇を通り過ぎようとした。
「待って。」
その服の裾を反射的にぎゅっと掴む。
「……なんだ。」
「……ユーシスなら奇跡が起こせる気がする。」
天啓の様にひらめいた言葉をそのまま口に載せると、ユーシスはたっぷり三秒は固まった。
「…………はあ?」
「私のお財布にお金がなくてもユーシスがいるならきっと大丈夫というか。」
掴んだままの裾とこちらの顔を交互に見ながら、ユーシスが眉をひそめる。
「……つまりおごれと?」
「ううん、お金は明日には返す。でも、このメニューは今だけ。」
こちらの顔と看板を行き来していた水色の目は、ため息とともにこちらに向き直った。
「踏み倒すつもりなら、おごれと言い切る方がまだいいと思うが。」
「そんな事しない。借りたものは返す、当たり前の事。おごってくれるならそれはそれでありがたいけど。」
反射的に返すと言ってしまったのは失敗したかとも思ったが、金額的におごってといいづらかったのも事実である。
「……まあいい、そこまで言うなら」
ため息一つの後に聞えてきたのは、意外な事に望んでいた台詞だった。思わず目を見開く。頭の上でなにかの鐘が鳴り響いたような気すらした。まさに奇跡だが、この機を逃す手は無い。
「ありがとう、ユーシス。」
がし、と裾を掴んでいた手を腕に持ち替えて、キルシェの入り口に向かって歩き出す。
「おい、引っ張るな。」
「……ごめん。」
少し速度を緩めると、全く、とため息が降って来た。
扉を開けて、空いてる席を探す。あっちは学生でこっちは……と見ていたら、知った顔を見つけた。赤い制服に、緑の髪と紅茶色の髪。マキアスとエリオットだ。4人掛けのテーブルを二人で陣取って、何かノートを広げているらしい。
ぐい、とユーシスを引っ張ってそちらに向かうと、流石にユーシスも気付いたか抵抗が出てきた。
「おい、どこに向かってる。」
「空いた席。」
「わざわざアイツのいる所に行く必要があるのか。」
俺はごめんだとばかりに足が止まる。しかし、そのやり取りはどうやら先方にも聞えたようだった。
「あれ?ユーシスとフィー?珍しいね。」
エリオットが手を挙げると、マキアスも顔を上げる。
「なんで君達が一緒に居るんだ?」
こんちは、と挨拶をしてみると、マキアスはさらに怪訝な顔になった。
「アイス食べにきた。……ユーシスは、今日のスポンサー。」
「つまりおごらせるのか。一体何の弱みを握ったんだか。」
はー、とマキアスの視線はユーシスにそれる。と、ユーシスが間髪入れずに噛みつく。
「別に何も握られてない。ここまで貴様の発想が下品だとは思っていなかったがな。」
噛みつかれても、マキアスは少し眉をひそめただけだった。
「何も握られてないなら相当の物好きだな。後々後悔するぞ、それ。」
それ、と示された先には自分がいる。
「それ、じゃないし。」
かったん、と空いた椅子を引くと、おい、と上から声が掛かった。言わんとする事は解るので、華麗に無視して腰掛ける。
「お邪魔していい?」
「うん、いいよ。」
エリオットに聞けばあっさり許可が出た。
「おいっ。」
もちろんマキアスの抗議も無視である。
「まあまあ、折角一緒になったんだしさ。」
エリオットの宥めるような笑みにうんうんと頷く。無論ぎゅっと掴んだままのユーシスの腕は、まだ離しては居ない。
「……ちっ……仕方ないな。」
しばしののち、結局ユーシスは諦めたように隣の椅子に腰掛けた。
「……本気で物好きだな、君も。」
「言うな。」
「ユーシスって、案外お人よしだよねえ。」
「……言うなといってる。」
ごそごそと言っている男子の声はオール無視で、フィーは片手を挙げてウェイトレスを呼んだ。
「レモンアイスのサンデー一つ……!」
口の中で冷たく溶けるアイスはやっぱり甘酸っぱくてさっぱり味だった。上から掛かっているレモンのソースが程よい酸味でとても美味しい。一緒についていたのは生クリームにレモンの砂糖漬けとオレンジを切ったもの、各種ベリー類にハーブの葉、それにスティック状のクッキー。盛られたアイスの上にはチェリーがとんと載っていて、彩りよく豪華さを全力でアピールしている。
さすがの特別メニューだった。注文したのは間違いではなかった。幸せというのはこういう事を言うのだ、きっと。
「……なるほど、それが食べたかったのか。」
「確かに気になるよねえ。」
わからなくはない、というマキアスとエリオットの言葉には、ん、とだけ応えておく。
「外で30分以上も迷う程の物かは知らんがな。」
だが、その次のユーシスの言葉には流石に目線が行った。
「……どういうこと?」
こくりとアイスを飲み下すと、ユーシスは呆れたように紅茶を下ろした。
「俺が本屋に入って出てくるまでずっと同じところに居たように見えたんだが。」
つっと視線をアイスに戻して、また甘酸っぱいアイスを堪能する。
「……そういう日も、ある。」
若干気まずいのは気のせいだ。
「……それで絆されたのか。」
「……ユーシス、優しいねえ。」
はー、としみじみ驚いたような呆れたようなマキアスとエリオットの言葉に、ユーシスは気まずそうに言葉を詰まらせた。
「……別におごるわけじゃない。明日には返す、といわれたしな。」
「へえ、フィーにしちゃ珍しいな。」
少し驚いたようなマキアスに、逆にユーシスが驚いたらしい。
「……ほう、毎回おごらされていたのか。」
「……そもそもそんなに頻繁じゃないし。大体少額だったからな。」
この金額なら間違いなく断る。そういいながらマキアスはぶすっとコーヒーを啜った。
まあ事情としては、値引きやおまけのある時に一つ貰ってみたりとか、食堂でかち合った時におすそ分けをねだったりとか、そんな程度だ。いい場面を見てしまったときはジュースを請求してみたりもするが、その辺りはジュースに免じてなかった事になっている。
「……おごってくれるならそれはそれで歓迎する。」
ユーシスの方を見上げると、ユーシスはふうと息をついた。
「……金は明日には返す。借りたものは返すのが当たり前だ。……そう言ったのはお前だろう。」
15分前の言葉をひっぱりだされて、むぅと言葉に詰まる。
「……それは、そう、だけど。」
その言葉は、ちょっと必死だったのと、ちょっと値段が豪華だったあまり口から零れ出てしまっただけなのだ。……まあ確かにその通りではあるのだが。
「……はー……フィーでもそんな事を言うのか。」
マキアスの驚いたようなため息を、エリオットがたしなめる。
「……マキアス、それはちょっと失礼なんじゃ。」
「いや、だって。大体毎回」
「マキアス、うるさい。」
ぷいっとアイスのほうに視線を戻して、また甘酸っぱいアイスに取り掛かった。生クリームの柔らかさが心地いい。
「大体毎回何なんだ?」
頭の上で、ユーシスが尋ねる声がした。
「食堂で飲み物を注文しようとしたら、いつの間にか追加でジュースが頼まれているというか。」
マキアスの若干むすっとした声がそれに答える。
「パンの袋を開けるとどこからともなくやってきて、気が付いたら半分なくなってるというか。」
「……随分と鈍くさいんだな。」
「……うるさいな君は。だいたいそんなにしょっちゅうじゃないし。たまに、だし。」
マキアスの言葉に、スプーンを口に咥えつつうんうん、と頷く。
それに、仕方ないで済ませられる額でしかやっていないし、そもそもマキアスが言うほどにはやっていない。まだ数回だ。毎度同じ手を使うと学習されそうな気がしたから不意打ちで仕掛けているだけなのだが、今この瞬間、それはなかった事になっていた。割と鈍めで割とお人よしで割と経済状況も悪くないようだし割と反応が楽しい、ので、マキアスからしかやっていないのも確かだが、それは専門用語でカモという事も今この瞬間なかった事になっている。
「あのな。たまにでも悪いんだぞ、解ってるのか、フィー!」
耳近くでぎゃあと怒鳴られて、流石に顔を上げざるを得なくなった。
「……聞えてる。」
「フィー、そんな事しちゃダメだよ。」
エリオットの困り声に、ん、とだけ頷いてみる。
「少しは反省したまえ!」
「……いつもありがと。」
ガミッと噛み付く言葉にこっくりと会釈だけしてまたアイスにとりかかると、フィー!!!……と怒鳴り声が耳元で響いた。やかましいがなかった事にする。
「マキアス、落ち着いて落ち着いて。」
エリオットの宥めるような声と、こそこそと小さなささやき声。中身は良く聞えないが、どうでもいいので放置する事にした。
が。
「なるほど、ラウラ君に相談する、か。」
「え。」
ぽん、ときこえてきたもう一人の名前に思わず顔を上げる。と、男子3人が笑いを堪えるような顔でこちらを見ていた。
「……なるほど、やましいとは一応思っていたわけか。」
「ね、効果あったでしょ。」
「策士だな、エリオット。」
どうやらエリオットの発案らしい。確かに、サラよりエマよりリィンより効き目があるのは間違いない人選だ。
「……三人ともイジワルだね。」
ぶう、とむくれると、テーブルに自分以外の笑い声が広がる。甘酸っぱいはずのレモンのアイスが、その時だけ妙に酸っぱさを増したような、気がした。
*******
とんとん、と控えめなノックの音がしたのは、買ってきた本が四分の一くらい進んだ頃だった。
寝るにはまだ早いが、という時間。誰だろうかと思いながら、ユーシスは椅子から立ち上がる。
「誰だ?」
「私。」
ドアを開ける前に誰何すると、少し高い声が応えた。フィーだ。
「……こんな夜に何の用だ?」
言いながら扉をあけると、フィーはこちらを見上げるようにして立っていた。
夕食時に見たときより、少しずつ髪が乱れていたり手足が汚れているのが気にはなるが、本人は至って当然のような顔でこちらを見上げている。
「お金。忘れないうちに返しにきた。」
はい、と差し出した手の上には、本日のデザート代、かっちり1600ミラが載っていた。
「意外に律儀だったんだな。……明日でもよかったんだが。」
言いながら受け取ると、フィーは失礼な、という風にこちらを見る。
「自分で言った事くらいは守る。明日になったら忘れるけど。」
「……そこは言い切るところではないだろう。」
「とりあえず今日は忘れなかった。……アイス美味しかったし。」
無表情なフィーが、アイスといった瞬間少しだけ幸せそうな空気を纏う。
「……それはよかったな。」
そういえば、アイス代を貸すと言ったときも何か幸せそう……というか、背後に花が散ったようだったのを今更思い出した。その後も……自分をキルシェに引きずって行ったあの瞬間、フィーは確かに心底嬉しそうに笑っていたのだ。余りに予想外過ぎて、今思い出しても現実味はない。その前の珍しい位必死な表情と合わせて滅多に見ない顔だったため、驚きすぎて流されたのかと言われたらそれまでなのだが。
今はそんな片鱗もないきょとんとした顔が、あ、そうだ、と思いだしたように言う。
「これ、おまけ。」
ポケットから引っ張り出されたのは、キラキラと輝く金と緑の欠片だった。
「セピス?どうしたんだ?」
「さっき取って来たんだけど、割と綺麗なのが余ったから。」
「……さっき?」
若干荒れた髪の毛、そこここが微妙に汚れた格好。……まさか、が頭をよぎる。
「……もしかして、街道に出たのか?」
「うん。」
当然、とあっさり頷かれて思わず声があがる。
「阿呆が!それ位の事でそんな危ない真似をする奴があるか!」
「……ユーシス、今は夜。」
耳を押さえて見上げられて、あ、と声を落とす。
「そういう事なら大人しく」
「契約は守る。それが流儀。
それに、お小遣い稼ぐのは夜のほうが効率いいし。」
……何の流儀か。フィーの、ひいては猟兵団の、である。アイスを食べて幸せそうな顔をしていたりすると忘れそうになるが、そういえば猟兵団出身だった。だから夜の街道など慣れたものなのだ。……多分。
「……いつもなのか。」
「お小遣いは自分で稼ぐ。当たり前。」
言っている事自体はもっともにも聞こえるのだが、自分と常識がズレているのも間違いないらしい。
「それでも、だ。あんまり危ない真似をするんじゃない。」
「……意外に心配性だね。」
意外も心配性も心外である。
「万一何かあったら、寝覚めが悪いからな。」
そう言うと、なるほど、となぜか納得された。
「じゃあちょっと気をつける。」
ん、と軽く頷くが、そもそも意見を容れられた気がしない。容れられたならそれはそれで何か妙な感じがする。結局曖昧に応じると、フィーは、あと、と付け足した。
「次の限定メニューの時は大人しくおごられるからよろしく。」
さっきうっかり言いかけた言葉の先は、どうやら理解されていたらしい。
「さりげなくたかるな。誰もおごるとはいってない。」
フィーは、そう?と首をかしげた。
「私にはそう聞えた。」
「……随分都合のいい耳だな。」
そんな言葉は聞えなかったとでも言うように、フィーはしれっと踵を返す。
「用事はそれだけ。じゃ。」
「ああ。」
なんとなく見送って扉を閉めようとすると、フィーは、あ、と振り返った。
「?」
半開きの扉の間からこちらに向いた目が、一度瞬く。
「アイスありがと。おやすみ。」
アイス、の響きだけが妙に幸せそうだった。おかげでどうも自分が思っていた以上に恩を売ったような気がしてくる。
「ああ、お休み。」
言うと、フィーは今度こそ、音もなく3階のほうに歩いていったのだった。
閉じた扉のこちら側でふ、と息をつく。
掌の中には1600ミラと空と風のセピスの欠片。ひとまず金を財布の中に入れてから、セピスの欠片を眺めてみる。確かに普通のものより少し純度が高いと見えて、色が濃い割に透明感も高い。宝石とまでは言わずとも、半輝石程度には綺麗といって差し支えないだろう。
おまけ、と言っていたが利子ということなのだろうか。しかし、あのフィーがそこまで律儀な気は全くしない。
しげしげと眺めたところで、今日のアイスと似た色のセピスは、猫の目のようにきらめくだけだった。それがなんとなくくれた本人を思いださせる。
「……猫の気まぐれ、か。」
猫が獲物を取って持ってきた、と考えるならば、ほんの気持ちとかそんなところだろうか。
他に理由らしい理由は思いつかないし、深く考えるのも無意味な気しかしない。
扱いに少し迷って、結局財布の中に放り込む。
硬貨とは異なる澄んだ音。その向こうで、きまぐれな猫がゆらりと尻尾を揺らしたような気がした。
ちゃっかり帝都の屋台でレモンジェラード注文してたあたりフィーはあの手の味好きなのかなと思ってます。