暗い部屋で、ティオは何度目かの寝返りを打った。
目は覚めている。でも、目を開けるのは面倒だった。だからと言って夢に戻るのは嫌でもありで、薄目を開いたりまた閉じたりを繰り返す。
ただ、水が飲みたかった。夜に飲んだらむくむと言うけれど、飲まなければ多分気になって眠れない。
しかし、身体を起こすのはやっぱり億劫だ。
喉の渇きと億劫さを天秤に掛けてしばらく目を閉じてみる。だが、結局わかった事は、眠れる気配を完全に逃したという事くらいだった。
仕方なくのろのろと身体を起こす。そのままのスピードでベッドを降りて、スリッパに足を滑り込ませた。
すぺたっ。すぺたっ。そんな気の抜けた音をさせながら、部屋を出て階下へ向かう。
二階まで降りたところで、階下に明かりがついている事に気がついた。
誰かの消し忘れだろうか。そんなことをぼんやり思いながら、なんとなく下のほうに感覚をやる。と、何者かの気配がした。ぺちゃぺちゃという音も感じる。
残業には遅すぎる時間だった。少し警戒して階下を見ると、微かな明りの中で黒い猫が餌皿に首を突っ込んでいる。コッペだ。すぐそこには、多分男性の足。誰のものかもすぐわかって、ほっと緊張を解く。
「なんだティオすけ、こんな遅くに。いい子は寝る時間だろ。」
声を掛ける前に、ランディがゆったりと顔を上げた。
「コッペ、ランディさん。こんな遅くにどうしたんですか?」
先制に少し驚いて尋ねると、コッペも同じように顔を上げる。
「にゃ。」
「階下に降りたらコッペが戻ってきてたんでな。ちょっと遅い夜ご飯ってとこだ。」
ほれ、食べてて良いぞ。
ランディに促されて、コッペはまた餌皿に首を突っ込んだ。
「ティオすけはなんで降りてきたんだ?」
「私は水を飲みたくて。」
「そうか。」
言葉はそこで途切れた。なんだか調子がよくない。いつもならもう少し違う気がするのだが、何処が違うのかもよくわからなかった。
わかるのは、どうも本調子では無いということ。
会話の続け方がつかめなくて、仕方なく黙って台所に向かう。
コップを出し、水を入れて一口あおると、喉の渇きはあっさり消え去った。少し考えて、もう一つコップを出す。同じように水を入れて、またソファに戻る。そして、食事中のコッペを眺めていたランディの目の前に差し出した。
「お。」
「どうぞ。」
ありがとな、とコップを受け取るランディの隣に腰を下ろす。
「良い子は寝る時間だぞ?」
「大人でも寝る時間ですね。」
食事が終わったらしいコッペが、首をかしげてこちらを見上げる。
「お、食事終わったか。ほれモフらせろ。」
それを待ちかねていたように、ランディが抱えあげた。少し膨らんだおなかのコッペは、驚いたように身体を伸ばす。ランディはそれをひょいっと折りたたむと、自分の胸に抱え込んだ。むぎゅうとか、もふぅとか、そんな擬音がきこえそうな勢いだ。次はのど元。しかし、そこを思い切りモフられたのが堪えたのか、コッペは身をよじって逃げ出してしまった。
逃げ出した先は、こちらの膝の上。
「ちぇ、フラれちまったか。」
「そう言う問題じゃないでしょう。」
飛び乗ってきた膝の上の暖かな毛皮をゆっくり撫でる。
「よしよし。コッペはやっぱりもふもふですね。」
こちらは危害を加えないと思ったのか、なぁ、とコッペは身体を伸ばし、膝の上で丸くなった。
「まったくもう。ランディさん、乱暴はダメですよ。」
横目でチラと睨むと、ランディは困ったように肩をすくめる。
「別にそんなつもりはなかったんだがなあ。」
「食事の後なんですから、もっと優しくしてあげなくては。
というか、ランディさんだって普段はもうちょっと丁寧に扱ってるでしょう。」
ねえ、コッペ。
そう言って丸まった背を撫でる。コッペも同意するように、うなぁと声を出した。
「そうか?」
「そうですよ。
ランディさん、今日はなんだかおかしいです。」
そうか?とまた聞かれ、そうです、とまた答える。
先ほどなんだか会話が続かなかったのも、自分が本調子でない・・・というより、ランディの反応がいつもと違ったからのような気がしていた。コッペの扱いだけではない。いつもの軽口だって今夜は少な過ぎる。
「どうかしたんですか?」
身体を傾け少しだけ身を寄せて、隣の感情に感覚をあわせてみた。
「いいや?別に何もねえよ。」
じっと見つめる視線に少し驚いたように答える言葉はいつもどおり。感じる感情も平常どおり能天気な色だ。
ただ、見つめた先の瞳の色には、慌てて塗りつぶしそこなった感情が少し顔をのぞかせていた。
・・・迷いと、寂しさ、空虚感。
詳細がわかるほどの力は無いし欲しくもない。ただ、しんみりため息をつきたくなる夜もある、という事・・・そして、無性に何かを抱きしめたい気持ちになる事もあると、そう理解した。
自分なら、そんな日はみっしぃのぬいぐるみを思い切り抱きしめてみたりするのだが。
膝の上のコッペに目をやると、コッペはごろごろと喉を鳴らして丸まっている。なんとなく幸せそうな暖かい気持ちが伝わってきて、思わず頬が緩んだ。
そして、一息。
コッペをあまり動かさないように、もう少しランディに近寄る。ぺたり、とくっつくと、ランディは少し驚いたようにこちらを向いた。
「どうしたんだ?」
くっつきついでに体重を預ける。
「なんとなく、です。」
ランディの肩にもたれて、そう答えた。
「そうか。」
間の抜けた返事。そして一呼吸。頭の上に大きな手がかぶさった。くしゃ、とその手が髪を撫でる。
感触に驚いて、思わず顔を上げた。
「なんとなく、だな。」
疑問符だらけの顔をしていたのだろう。返ってきたのはのんびりした、さっきの自分と同じ答えだ。
「そうですか。」
同じように返した返事も、なんだか間が抜けていた。
なでなで。頭の上を往復する感触が、なんだか気持ちがいい。心にも心地よくて、ふわりと意識が飛びそうになる。
だから、その手が止まった時は寂しさを覚えた。
・・・それはまあ、あんまり撫でられ続けてたらハゲるかも、と思わなくは無いのだが。
もう終わりですか?と。聞く代わりに、ぎゅうと抱きしめてみる。
「お?」
ランディも流石に一瞬驚いたようだった。
・・・が。
「もしかして熱烈歓迎って奴か?」
よっし、そりゃご期待には応えなきゃな!とかなんとか。軽くかつ気合の入った言葉が飛んできて、ぎゅう、と抱きしめられた。上辺だけなのかどうかはわからないが、やたら嬉しそうである。その勢いにびっくりしたのか、コッペは跳ね上がってソファの反対側に避難してしまった。
「・・・めずらしい、とか言わないんですね。」
がら空きになった脚が少し寒いが、その分ランディの胸に埋めている頭の方は温かい。
「言ったら逃げるってのはお約束じゃねぇか。俺はそんなバカはしないぜ。」
顔を上げると、キラッ、なんて音が似合いそうな目と目が合った。
「ティオすけがせっかく自分からこっちに来てくれたんだ。機会は有効活用しないとな。遠慮なんてもったいねえだろ?」
なんとなくシャイニングポムを思い出してしまう出来なのに、声が妙に色っぽい。ああ、飲み屋のお姉さんたちを口説く時、きっとこんな感じなのだろう、と頭のどこかが冷静にため息をつく。しかし、自分にそれを向けてくるのは違和感しかなかった。
「・・・その言い方はなんだかいかがわしくないですか。」
きょとなん、とした目と目があって、そして。
「ハッハッハ、そうかもしれねえなあ・・・。」
ランディが悪の大王のような声で笑った。同時にその手がこちらにのびる。
「ほれ。」
「え。」
間の抜けた声は自分のものだ。身体は瞬く間に抱え上げられて、ランディの膝の上に着地していた。
「・・・さあ、コッペの分まで思う存分モフらせてもらおうか。」
悪の大王は、そう言ってむぎゅうと・・・妙に楽しげに、また自分を抱きしめる。ぎゅうぎゅう、なでなで。完全に猫と同じ扱いだ。
なにか釈然としないのに、暖かくて、妙に安心して・・・ひとまず苦しかった。手加減しているのはわかるが、それでも流石に息苦しい。
「ランディさん、加減が足りてないです。そんなだからコッペが逃げるんじゃないですか。」
とりあえず、ちょっとだけ抵抗して身体を離す。そしてお返しに、えい、と首に抱きついてみた。
「おおお。ティオすけ今日は積極的だな。」
驚いたのか、力が緩む。
「てっきり逃げるかと思ってたのによ。」
「逃げた方がよかったんですか。」
耳元でぼそっと言うと、びくりと止まって、すぐに頭を振る。
「いやあ、それだけはないな。」
むしろ千載一遇とかいう奴だろ?とかなんとか続く言葉。その様子に、ふう、と息をつく。
「まあ、なんとなく、です。ランディさん、今日はなんだか寂しそうに見えましたから。」
今度こそ、ランディが止まった。絶句したと言うのが正しいのだろうか。驚いたとか、ぎょっとしたとか。ありありと感じるそんな感情。さすがに、してやったり、とは思わないのだが。
少しして、はは、とため息のような笑い声が洩れてきた。
「全く、ティオすけに心配してもらえるとはなあ。」
可愛いやつめーと。ふざけ80%でも頭を撫でられるのはなんだか心地よい。ただ同時に、さっきまで見え隠れしていた寂しそうな気配が、すっと消えたのもわかった。子ども相手にかっこ悪いところは見せられないとかそんな所だろうか。頭は冷静に結論をはじき出すが、それはなんだか寂しく感じる。
「だが、そういう言い方は他の奴にするなよ。可愛すぎて調子に乗っちまうからな。」
そして、むぎゅ、と。抱きしめられても、そこに他意は1%だってなかった。
「私だって言う相手は心得てるつもりです。ランディさんなら、万に一つも間違いは無いと。」
ぬいぐるみのように身体を預けてそう答える。
「なんか嬉しくねえ信頼だなそりゃ。」
「だって、ランディさん、私のことを一番年齢相応に子ども扱いしてますから。」
誰より一人前に信頼してるように見せかけて、素の表情はいつだって見せない。子どもには、なんて思っているのが時折見える。
え、と。緩んだ力に促されるように身体を離し、目を合わせた。
「コッペに対する態度と私に対する態度が同じです。」
こちらを構うのだって、どうかすると猫じゃらしの様相を呈していたりするのだ。
「そんなことは」
心外、と即座に否定する言葉をさえぎった。
「言いたくないですけど、隠し事やごまかしは私には無効です。」
ぎょっと目を見開いた表情にため息をつく。
「・・・そういうふうになってますから。」
人工的に高められた感応力は、遠くの音、近くの感情、読みたくもないものまで読めてしまう。手に入れた経緯が経緯だけに重荷でしかなかったそんな能力は、大事な人たちから必要とされる事で、ようやく認めることが出来るようになってきたところだったのだが・・・ふとした瞬間、やっぱり要らないと思えた。
例えば、今のような時に。
「そうか。悪かった。」
ランディはそう謝って、ふ、と息をつく。
「そうだよな。お前さんも地獄を抜けてきたんだったか。」
そこに不必要な哀れみはなかった。大変だったんだよなあ、と。ただ優しく苦過ぎる笑いに、そうです、と頷く。
多分、きっと、ロイドやエリィには想像もつかないだろう。でも、自分には悲しいかなわかってしまうのだ。その寂しさの先にあるのは、きっと体験したものにしかわからない孤独と恐ろしさだと。
そんな影は、ランディの軽く明るい表情の向こう側に偶に見え隠れしていた。もっとも、自分の顔を見た途端、それは速やかに平常色で塗り潰されてしまうのだが。
自分には彼が負った荷物の中身はわからないし、その重さもわからない。わかることは、彼もまた自分と同じく闇の世界を見てきたということくらい。
「・・・だから寂しそうにしてる貴方をほっとけません。」
・・・でも、行動するにはそれで十分だった。
「まあ、みっしぃぐるみをお貸ししてもいいんですけど」
絶句しているランディに、ぼそ、と言葉を続ける。
「辛い時、寂しい時は私を呼んでください。多分、誰よりもぬいぐるみ代わりに適任のはずです。」
相手がランディなら変な気を起こす事もないだろうし問題もない。歯がゆいが、それは子どもだと思われているからこそである。
ランディが、やれやれ、と息をついた。
「そこまで言われちゃあ・・・と言いたいトコだが。」
そして、じっと視線が此方を向く。
「気づいてたか?ティオすけ、今日降りてきたとき本当酷い顔してたんだぞ。」
一人で迷子になったみたいな顔してな、と、穏やかに続く言葉。
今度は此方が目を見開く番だった。
「いつもよりくっついてくれてるのはそのせいかと思ってたんだがな。」
心当たりは、・・・あったあたりが情けないが。気恥ずかしくて視線を伏せると、くすくすと小さな笑いが聞えてきた。
「俺も、ティオすけが寂しい時に一緒に居るくらいはできる。」
だから、寂しくなったらお兄さんが抱きしめてやるぜ、と。うりゃあ、と抱きしめるその感覚は やっぱり優しかった。
結局ランディの方が上手だったのだろうか。誰かに抱きしめられたくなる事だってありはするが、見通されていたのだろうか。慰めてやるつもりで慰められていた、と、そう言うことなのだろうか。
疑問とつもり違い。そして、思い上がっていたのかな、という恥ずかしさ。
結局自分はまだ子ども、なのだろうか。
少し居心地が悪いが、労わりは付き返せない。
「何かすっきりしませんが。」
・・・慰めるのは私だったはずなのに。
むう、と不満を口に出すと、ランディはあっけらかんと笑った。
「ティオすけは華奢だからなー。抱くのに丁度いいから俺も役得ってとこでどうだ。」
ごまかしも他意もないのはわかるのだが。さらに釈然としないというか、だからこそ許せるというのか。
わからない。
「なんだか言い方がいかがわしいです。」
もはや出てくるのは半呆れのため息だった。でも、それはいつもと変わらないやり取りで、ふっと気が軽くなる。
「・・・でも、そういうことにしておきます。」
なんとなく楽になりましたから。正直にそう言うと、ランディも満足そうに頷いた。
「そうしとけー。」
その声は能天気に明るく、明るく塗りつぶした痕跡すらなくなっていた。
階下に降りたときに見た、・・・あの暗い感情は、少しは薄まったのだろうか。
少し身を離して、正面から相手のの顔を見る。
「ランディさん。」
声を掛けると、ランディは、んー?と首をかしげた。直観的に、誤魔化されるかもしれないという予感が走る。
それでも、聞きたかった。
「あなたの方は、もう大丈夫ですか?」
きっちり相手の目を見て、問う。
一瞬ふざける方向に揺らいだ感情は、ため息とともに微笑みに変わった。
「ああ。」
一度離れた体が、もう一度抱きしめられる。はぐらかされたかな、と思ったところで、耳元に声が聞えた。
「ありがとうな。」
格好をつけた言動ではない。子ども扱い、というわけでもない。
素の言葉だと、直観的に感じた。
「・・・こちらこそ、です。」
だから、一杯の気持ちを込めて、抱きしめ返した。
・・・なるほどそういうものなのか、と思いながら書いてました。
ランディがティオを構い倒したくて仕方ないのに常にフラれ続けてる絵が大好きです。
猫を構おうとすると猫って逃げるじゃないですか、アレっぽく。
だから、猫がたまにくっついてきたら超嬉しいんですよ!テンション上がるんですよ!
それでも特務支援課ツッコミ担当なこの二人が大好きです。
本命がいようがいまいが、この二人が楽しいから。