早朝の空気はまだまだ冷たい。そんな、さる道場内に若い掛け声が響いていた。
視線は正面。澱みなく繰り出される拳と蹴りは、愚直なまでに型にぴったりはまっている。
茶色の少し伸びた髪が、動きに合わせて踊った。その舞は、ある一定のリズムである一定の軌跡を描いて続く。
続いて続いて、また最初の構えに戻ると、背後、道場の入り口から声が掛かった。
「よう、ジン。やってるな。朝っぱらからご苦労なこった。」
振り向いた先には、明るい色の髪の道着姿の男が一人。
「ああ、ヴァルターか。今日は俺は出遅れていたようだが。」
ジンがそう言って額の汗をぬぐうと、ヴァルターは面白くなさそうに黙る。
「道場の清掃が済んでいて、屋内が少し暖まっていたからな。」
ヴァルターはそれを聞くと、ふん、と鼻を鳴らして不適に笑った。
「ま、気付かないわけがねぇか。」
「そうね、気付けないのなら掃除をやり直してもらうところだったわ。」
ヴァルターの背後から、涼やかな声がした。するりと半身をずらすと、その後ろから道着姿のキリカが現れる。
「よう、キリカ。お前さんも早かったんだな。」
ジンが片手を上げて挨拶をした。
「ヴァルターには負けたのだけどね。」
会釈を返しつつそう言うキリカに、ヴァルターは嫌そうに肩をすくめる。
「道場に入ったのは同時だっただろうが。」
ヴァルターは後ろを振り向いてぼそりと言った。キリカは表情を変えずに首を振る。
「同時なら負けよ。」
「それなら俺も負けだな。」
言ってヴァルターが目線を道場内に向けると、キリカはそっけなく彼を見上げる。
「あら、武術をやっている割に勝利に貪欲ではないのね。」
「譲られた勝利に甘んじるほど俺は飢えてねえよ。ったく。」
そのやり取りにジンが笑いを押し殺している間に、ヴァルターは後ろを振り向かずに手を振って、すたすたと道場内に入っていく。
「おら、ジン。もう体も暖まっただろ?組み手でもしようぜ。」
道場の真ん中まで出てこちらに向き直る。
「ヴァルター、体も温めないで大丈夫なのか?」
「あー、さっきまで走りこんでたから大丈夫だ。」
それならば、否を言う理由はなかった。
ぱしっと手を合わせるヴァルターに相対し、姿勢を正す。
相手と目を合わせて一礼。
一歩離れて構え。
『破!!』
闘気がぶつかり、鋭い攻撃が交錯した。
右・左・左・上。連続攻撃は、考えられないほどの身のこなしで避けられ、跳躍からの蹴りは、腕一本で弾かれる。弾かれ、体勢を立て直そうと身を屈めたところに、横様から上段蹴りが入った。着地予定地点より大幅にずれた所に着地、素早く次の行動に備える。
床を蹴って当身へ。
目の前に居たヴァルターの姿が消え、背に気配が移った。飛び離れようと床を蹴ろうとすると、その脚は衝撃を受けて浮く。
「おあっ!?」
体勢を立て直す間もなく、次の瞬間ジンは床を転がっていた。
「っててて・・・」
「おいおい、俺は何もやってねえぞ。」
身を起こしていると、開始地点に戻って構えを解いたヴァルターから声が掛かる。
「下段蹴り・・・いえ、足払いが決まっていたように見えたけれど。」
練習用の武器を片手にキリカが感想を述べると、ヴァルターは渋い顔をした。
「・・・俺も甘かったってことか。」
「あれが下段蹴りのつもりなら。」
キリカの声は、淡々と事実を指摘するのみ。その後彼女は、何事も無かったように投擲練習に戻る。
「なるほど、違いねぇ。」
ヴァルターはそれを確認し、くつくつと笑って、開始位置に戻ったジンに顔を向ける。
先ほど笑っていた事などなかったかのような真剣な顔。
「蹴りがまだ甘ぇな。力の掛け方が足りてねえ。腕くらい粉砕して見せろや。」
「応っ!」
礼、そして構え。ヴァルターがぼそりと呟く。
「今度はこっちから行く。」
「わかった。」
視線が交錯した刹那、ヴァルターとの距離が縮まった。
身を屈め、腹部を腕でガードすると、それをこじ開けんばかりの拳の雨が降り注ぐ。防戦一方なのだが、攻撃の隙が見出せないままダメージが蓄積されていく。
次いで、下段蹴り。跳躍して避けると着地点に正拳突きが待っていた。こちらも腕で防御し飛び離れる。追いつかれる。気の奔流と衝撃が、防御を突き破ってジンの体を襲った。気の流れに吹き飛ばされ、ひざをつく。殺気に気がついてかおを上げると、眼前に拳が迫り・・・一寸の距離を置いて止まった。
「勝負アリ、か?」
寸止め状態のまま、冷厳な声が降って来る。殺気に紛うほどの闘気はまだ消えていない。動けば次の攻撃がくるだろう。
「参った。」
言うと、ヴァルターを包んでいた闘気がすぅっと消えた。警戒が緩み、手が腰に、足も伸ばされる。
「よし、もういっちょ付き合え。」
自らの腕に視線を走らせながら、ヴァルターが言う。
「あ・・・ああ。」
ジンも自分の腕を眺めて返事をした。先ほどの連打の後遺症か、情けない事にまだ調子がおかしい。
ヴァルターの視線もジンの腕にいく。
「ふん・・・」
視線に、なにか妙なものを感じた。本能的な警戒心が働く。ここのところ、たまに感じる、それの原因は、わかるようなわからないような・・・。
と。
ふわり。
目の前を白い布が横切った。
「?」
ヴァルターが飛んできた布を掴むと、その影から何かが現れ・・・。
「っ!?」
何か・・というか、高速で飛んできた氷嚢は、痛そうな音と共に布を掴んだヴァルターの額に狂い無く命中した。
落ちる寸前に、もう片方の手で袋を掴むと、氷嚢が飛んできた方向からクールな声が飛んでくる。
「あなた、もう少し周囲に気を配ったらどうなの。」
「お前な・・・それがいきなり物を投げつけて言う台詞か?」
氷嚢を包みもせず、自分の額に押し当てながらヴァルターが唸る。しかし、投げつけた張本人のキリカは、平静そのものだった。
「武道家たる者、常にあらゆる事態に備えていなくてはね。」
「・・・・・・・。」
「あと、その氷とタオルはあなたよりも必要としてる人間がいるでしょう。」
物言いたげな視線も意に介さない。その態度にヴァルターは軽くため息をついた。
「・・・・ああ、わかってるさ。で、俺は?」
赤くなった額を指し示す。答えは傍から見ていたジンにも想像がついていたものだった。
「必要だと思うのなら自分でやればいいことだわ。」
「けっ、冷てぇ奴。」
とはいえ、『言ってみただけ』というのは、その場に居た3人ともが理解している。
「おら、しばらく冷やしとけ。」
氷嚢をタオルで包むと、ヴァルターはそれをジンに押し付けた。
「ああ、すまん。」
氷の冷たさがダメージが入っていた腕に心地よい。
・・・と思っているうちに、兄弟子はすたすたとキリカのほうに歩いていった。
「どうかしたの?」
円月輪を構える手を下ろし、キリカが振り返る。
「氷はどこから取ってきたのかと思ってな。」
平然と少しおどけて言う言葉には、冷えた風のような言葉が返ってくる。
「・・・それだけではないでしょう。」
「・・・俺に氷嚢をぶち当てた理由を聞きたいと思ってな。」
相手にしか聞こえない程度に落とした声。キリカは息をついた。
「そうね・・・。
ヴァルター。さっきまた、余計な事を考えていたでしょう。」
声が低い。
「ジンの腕を本気で砕く気だった。破壊と力が欲しい。そんなところかしら。」
緊張した空気が二人の間に流れる。一秒、二秒・・・それは、一つのため息で崩れた。
「・・・・・さすがにリュウガ先生の娘だな。お見通しってわけか。」
「目を見れば私でなくてもわかるわ。気付いていないのはお人よしのジンくらいのものよ。」
見上げる視線は冷たいようで真摯だった。
「自覚があるうちに、まずいと思っているうちに引き返しなさい。わかっているのでしょう?」
「・・・・ああ。」
応えると、少し空気がほぐれる。
「・・・ったく、見透かしやがって。」
苦笑い交じりに鼻を鳴らすと、キリカがくすりと笑った。
「当然よ。私を誰だと思っているの?」
「リュウガ先生の・・・いや。」
即答しかけた言葉を止めて頭を振る。
「いけ好かない俺の女だ。」
「・・・まあ、及第点の回答ね。私は別にあなたの物になったつもりは無いけれど。」
冷たい声が耳に心地よいのは、慣れたせいなのか自分の趣味が致命的に悪いのか、その両方なのか。
「冷たいところも魅力ってとこだな。」
そう言ってキリカの顎に手をかける。上向きになった視線と視線が合う。この状態でも、相手の瞳には一瞬の揺らぎもなければ、閉じられる兆候もない。その必要が無い事はお互いにわかっていた。
「さっきは助かった。
心配すんな。・・・まだ、抑えられる。大丈夫だ。」
ぼそりとつぶやくと、かすかに瞳が伏せられ・・・そして、またまっすぐな視線が戻ってきた。
「・・・信じるわ。」
お互いの瞳に笑みはない。真剣さだけがその場を支配していた。
低く・・・それでもはっきりとした返事を確認して、手を離す。時間と空気の流れがいつものものに戻った。
「氷は道場裏の氷室に残っているはずよ。タオルも同じところにあるわ。気の済むまで冷やしなさい。」
「おう。」
ヴァルターは何事もなかったかのように道場裏に姿を消す。キリカも、何事も無かったかのように投擲練習を再開する。
「・・・(毎度の事ながら理解し難いよなあ・・・)」
会話などほぼ聞こえていなかったジンは、そんな二人に首を傾げつつ、腫れ始めた腕を冷やすのだった。
ジンさんからの情報だと、本当に表面的なことしかわからないんですが、ヴァルターさんの反応とかキリカさんの反応を見てると、なんだかんだでこっち二人は結構深いかかわりあったんじゃないかなーと思ってたりします。あと、あのキリカさんが選んでた相手って・・・とか、あのヴァルターさんが惚れた相手って・・・とか、考えれば考えるほど、とても浅い付き合いには見えないなあと。二人とも武道や道場が第一な上、糖分なんてものは付き合いが長いのもあってほぼ無さそうですが、その分だけ大事なところは夫婦よろしくつながってたんじゃないかと。大人で、触ると凍傷になりそうな感じ。
とはいえ、基本はみんな武道バカ、というのが私の見解なのですが。