Falcom TOP

オレンジの実る頃

 ぎり、と奥歯をかむ音がここまで聞えてきた気がした。
 「本当ならアンタにだけは絶対に頼みたくなかったんだけど。」
 「まあ、第三者から見れば適任なのはわかるんだけどね。」
 もっとも、敵意むき出しのエリカの表情よりも、ダンの笑顔の方がよっぽど怖いのが本当のところである。
 「でも、僕たちも外せないし。義父さんも忙しいし。護衛をつけないのは論外だし。」
 「ツァイス支部は皆出払ってて、どうしようもないってのも認めてやらなくもないわ……!」
 「だからね。
  まあ、腐っても君は一応高位の遊撃士だから大丈夫だと思うけどね?」
 普段は怖い笑顔だけなのだが、今日は言葉にまでトゲが混じってきていた。
 「ティータに指一本触れさせて御覧なさい、死んで償ってもらうわよ。」
 「そういうことだ。しっかり護衛してくれたまえ。」
 過激すぎる発言にはフォローも何もなく、うん、とダンは頷く。その迫力にはさすがに気圧されるしかなかった。
 「……正規の依頼だ。受けたからにはきっちりこなしてやるさ。」
 言葉に詰まりそうになりながらそう受けると、エリカがふん、と鼻を鳴らす。
 「……信用できるのかしら。」
 「……信用するしかないからね。大丈夫さ、エリカさん。アガット君だってミスをしたらどうなるか位はわかっているだろうし。」
 そう言いながらダンは安心させるように笑うが、穏やかな口調にはしっかり恫喝が混じっていた。
 「ミスなんて論外でしょ。」
 「ああ、そうだったね。」
 ここに立っているだけで結構な針の筵である。ティータは準備してから来ると言っていたが、まだ来ないのだろうか。そう思っていると、ようやく待望の階段を下りる音が聞えてきた。
 「アガットさん、お待たせしました!!」
 ばたばた、と玄関口まで駆けてきたのはティータである。背中に背負ったのは工具類だろうか。大荷物のような気もするが、今回の事を考えればそんなものかもしれない。今日の依頼はエルモ村までティータを送り届ける事だった。温泉のポンプの整備だとか改良だとかいう話らしいが、手空きが居なかったのだという。なぜ自分が護衛を引き受けたかと言えば、ついでにエルモ村の裏山に出たとか言う手配魔獣を倒しに行くためだったりするのだが。
 「おう。来たか。」
 とりあえず荷物を寄越せ、と手を差し出すと、ティータは素直に荷物を差し出した。
 「すみません、助かります。」
 「構わねえ。じゃ、さっさと行くぞ。」
 くるっと踵を返すが、後ろではまだやり取りが続いているらしい。
 「ティータ、気をつけてね?」
 「忘れ物はないね?」
 「もう、子どもじゃないんだから大丈夫だよ。道具のチェックはしたし。」
 両親のそんな言葉に、ティータは苦笑いしているようだった。振り返ると、どうやら気づいたらしい。ぱたぱたとこちらに駆けてくる。
 「じゃ、行ってきます。」
 くるりと向き直るティータにあわせて、一応会釈だけはしておく。
 「行ってくる。」
 そして、元気に手を振るティータをチラリと見ながら、また踵を返した。
 ラッセル家から角を曲がればすぐに街の外である。トラット平原道に出ると、一気に広々とした風景が広がった。ここからエルモ村まではは大体4時間くらいだろうか。魔獣さえ居なければピクニックによさそうなのだが、ピクニックで済むなら自分が護衛に付く必要もない。
 重剣がいつでも引っ張り出せる事を確認し、オーブメントの場所を探る。今日は荷物が大きいのだが、まあなんとかなりそうであはあった。
 「しかし随分な大荷物だな。」
 重剣を仕舞いながら言うと、ティータは困ったように頷く。
 「改装用のパーツがちょっと嵩張っちゃったんです。あの、すみません、持ちましょうか?」
 「いや、こっから160セルジュ歩くんだ。お前はしっかり歩く方だけ気をつけとけ。」
 よいせ、と担ぎなおすと、少し抗議するような声が返って来た。
 「……エルモ村までなら、私結構何度も行ってますよ?」
 「そういやそうか。
  だが、荷物抱えて歩いてて、いざ魔獣が来た時に対応できないじゃ困るだろ。」
 ま、力仕事は任せとけ。そう言うと、ティータは素直に頷いた。
 「じゃあ、すみませんけど、お願いします。
  ……えへへ、正直助かります。」
 「ったく、ガキのくせにいちいち遠慮すんなっての。」
 ため息をついて歩き出す。ティータは少し止まったようだったが、すぐにまた付いて来たようだった。
 
 
 太陽が随分上に昇ってきた。
 「そろそろ一度休むか。」
 二時間ほど喋りながら歩いていたところだった。魔獣も大人しかった為ここまで特にトラブルもなく来れたのだが、ティータも居ることだ。そろそろ休憩を取った方が良いだろう。
 「あっ、はい、わかりました。」
 声を掛けたら、存外に元気な声が返って来る。
 「あっちの木のところとかどうでしょうか。」
 「そうだな。魔獣もそんなにいなさそうだし、そこで休憩するか。」
 言われた木の方に足を向けた。少し高台に生えた木は丁度果実の時期だったのか、緑の中にオレンジ色がチラチラ見え隠れしている。
 「あ、何か生ってますね。」
 ティータも気づいたのか、ぱたぱたと先に走っていった。確か普通の柑橘の木だったはずだ。何度かあの辺りで休憩を取ったときに食べたような記憶がある。
 「あの木のは、確か食えた気がするが。」
 後ろからついて行きながら言うと、本当ですか?!と、なんだか嬉しそうな声が返って来た。
 「どんな味がするんですか?」
 「普通のオレンジだったと思うぞ。」
 確か。言っているうちに、木はすぐ目の前だ。2アージュないくらいの小さな崖になっているところによいせ、と上る。
 「ティータ、上れるか?」
 言いながら手を差し出すと、ティータは目を瞬いた。
 「え、あ、はい!」
 ぐい、と手が捉まれ、それをそのまま引っ張りあげる。
 「よし、と。」
 「えへへ、ありがとーございます!」
 なあに、と言いながら木を見上げる。思ったとおり、紛うことなくただのオレンジだった。ラヴェンヌ村で育てていたのと恐らく同じ品種だろう。
 「うん、食える奴だな。」
 手を伸ばしてみるが、一杯に手を伸ばしても食べられそうなのは一つしか届かない。軽くジャンプしてもぎ取ると、ゆさりと枝が揺れた。適当に皮をむいて半分に割ると、オレンジの香りが散った。どうやら虫食いもないらしい。一袋とって食べると、酸味と甘さが丁度良く口の中に広がる。
 「ほれ。」
 割った半分をティータに渡して、小さな崖に腰を下ろす。
 「わ、ありがとうございます。」
 荷物を放り出していると、ティータも同じように腰掛けた。
 「うん、美味しい。これ、野生ですよね。」
 「野生だろうな。ま、果樹園で育ててるのも元は大差ねえからな。」
 瑞々しい果実は、少し歩いた体に丁度良くしみこんで行く。もう一つ欲しいなと思って上を見上げるが、生憎食べられそうなものは木に上るかどうかしないと手に入りそうになかった。
 「ふふ、でも美味しいです。もうちょっと欲しいかも。」
 どうやら隣も同じように木を見上げているらしい。
 「同感だが、……剪定しない分上に伸びるからな。どうしても手の届かないトコに実が生るんだよな。」
 立ち上がって、果実に手を伸ばす。思い切りジャンプすれば届きそうだが、枝を折りそうな気もして少し躊躇われた。
 「アガットさん。私取ってこれるかもしれません。」
 「ん、どうするんだ?」
 振り返ると、ティータは、あの枝なんですけど、と丁度ティータの背の高さより少し上にある枝を指差した。
 「その、あそこまで上げてもらえたら、あの枝からこっち側に伝っていけそうなんですけど。」
 指の行く先には丁度よく熟した果実が生った枝がある。
 「なるほどな。」
 「それか、肩車してもらえたら届くかな、って。アガットさん背高いですし。」
 指先がするっとずれた先には、先ほど手を伸ばしていた枝が見えた。
 「なるほど。そっちの方が安全かもな。それで行くか。」
 言いながら手を延べて、少し屈む。ティータもわかったのか、要領よく抱きついてきた。そのまま一息に肩に上げると、ティータはバランスを取るように頭にしがみつく。
 「大丈夫か?」
 「はい、大丈夫です!えへへ、視点が高いって良いですね。」
 よいせ、とティータが肩の上を移動して、重心が安定する。
 「チビスケには新鮮かもな。」
 「……私、チビスケじゃありません。もう14ですよ。」
 むぅ、と不服そうなティータの声に思わず笑いが漏れた。
 「そんな事言ってる時点でチビスケだっつの。」
 なんだか、昔……そういえば妹にもこうやって肩車してやったりしていたっけな、と思い出す。チビ扱いしたら怒るところまでそのままだ。
 「ほれ、行くぞ。」
 歩き出すと、ティータはぎゅっと頭にしがみ付いてきた。数歩歩いたところで立ち止まって上を見る。
 「届きそうか?」
 上に向かって思い切り手を伸ばしているティータは、ええと、と言葉を止める。
 「あと右に0.5アージュ、くらいかな。」
 「了解。」
 半歩ずれると、あ、そこです!と声が降って来た。
 「届きそうですよ。」
 嬉しそうな声と同時に上の方で枝が軋む音がした。
 「よいしょっと。」
 やがて、ぷちっと軽い音がして枝がゆりもどる。
 「アガットさん、ちょっと持っててくれますか?」
 「はいよ。」
 手を差し出すと、丁度熟れた果実が渡される。
 「で、あと1アージュ前かな。」
 狙いは、ここの前に三つくらい固まって付いている枝だろう。
 「わかった。」
 二歩前に出ると、そこです、と声がする。
 「ちょっと待ってくださいね……」
 わさっと葉の鳴る音と枝の軋む音がして、またぷちりと音がする。さらにそれが二回続いた後、一際大きく枝葉が揺れた。
 「はい、こっちもお願いします。」
 オレンジが今度は二つ押し付けられる。
 「これだけでいいか?」
 聞くと、ティータは頭の上で頷いた。
 「はい、私は。今4つありますし、二つももらえたら良いかなって。アガットさんもう少し取りますか?」
 まだ狙えそうですけど、という言葉には首を振る。
 「お前がいいならいい。俺も二つもあれば十分だ。」
 「わかりました。じゃあ降りますね。」
 「あいよ。」
 言いながら身体を屈めると、ティータはひょいっと手際よく地面に降りた。その手にオレンジを一つ押し付ける。
 「これで半分だ。ありがとな。」
 「いえいえ、こっちこそありがとうございました。」
 言ってティータが笑った。オレンジの皮をむいてひょいぱくと口の中に袋を放り込む。
 「ん、美味しいっ。」
 言いながら、ティータはぺたん、とその場に腰を下ろす。
 「ま、採りたてだしな。」
 それに習うようにして自分も腰を下ろした。手元のオレンジの皮をむき、がぶりとかぶりつくと甘酸っぱい果汁が口の中に満ちる。
 「……豪快ですね。」
 ティータが目を見開いた。口の中のものを飲み込み、肩をすくめる。
 「村ではよくこうやって食ってたんだ。」
 言うと、ティータは、ああ、と頷いた。
 「そういえば、果樹園がありましたっけ。」
 「一応名産だからな。間引きした実とかよく貰ってたよ。馬鹿みたいに酸っぱい奴。」
 まだ青い実を山のように貰って、妹と二人で途方にくれた事もあった事を思い出す。
 「どうやって食べてたんですか?」
 「無理やり生で食べるか、砂糖漬けだな。元が酸っぱいから砂糖につければそこそこイケるんだ。」
 村長やら周りの大人に教えてもらったおかげで、その青い実は大体全て砂糖漬けになっていた。ミーシャがそういえば奮闘していたなと思うとなんだか懐かしい。
 「なんだか意外です。アガットさん、甘いの得意じゃないと思ってました。」
 「ま、甘ったるいのは苦手だが。食えねえよりは多少甘くても食える方がいいだろ。
  それにミーシャがそういうの好きだったからな。そういやよく作ってたよ。」
 「……ミーシャさんが。」
 へえ、とティータが呟く。
 「じゃあ、思い出の味なんですね。」
 「そんな大層なもんじゃねえよ。ラヴェンヌ村に立ち寄ったら大体出てくるし。」
 故郷の味といえば、まあ確かに間違っては居ないのだが。そんな事を思いながら食べかけのオレンジを平らげる。
 「俺は生で食える奴のほうが好きだしな。」
 砂糖の味の混じらない、新鮮で素朴な甘酸っぱさ。加工品よりもこちらが美味しいのは自明なのだ。二つ目を剥いていると、隣でぷしゃ、と小さな音がする。見ると、ティータが思い切りオレンジにかぶりついていた。
 慣れないのだろう、顔中果汁だらけにしている様子に、思わず笑いが零れる。
 「そんなにしてるとほんっとガキだな。」
 「むぅ……また子ども扱いするんですね。」
 抗議するような顔に、悪い悪い、と謝る。
 「だが、こうやって食うのも悪くねえだろ?」
 言って、自分の分にかぶりつくと、ティータは、口の周りに飛んだ果汁を舐めながら笑った。
 「はい、ちょっと新鮮でした。
  それに、そうやってるとアガットさんも子どもみたいです。」
 仕返しです、と言うような表情に、思わず目を見開く。やがてどちらともなく表情が緩んだ。
 「へっ、ナマいいやがって。」
 「えへへ、お返しです。あ、そうだ、顔拭きましょうか?」
 悪戯っぽい顔に、ぺちんと指弾を喰らわせる。
 「そりゃこっちの台詞だ。まったく、顔中汁だらけにしやがって。」
 「アガットさんだってあんまり変わらないじゃないですか。」
 むぅ、とティータがふくれてみせて、……それはすぐに笑いに変わった。
 「顔拭いたら出発するか。」
 「そうですね。」
 ケラケラ笑いながら顔を拭く。ぷは、と息を吐き出した瞬間まで被って、思わず顔を見合わせて、また笑う。
 休憩で気が解れたせいなのか、なんだか気分が良かった。なんとなく、ラヴェンヌ村に居たころに戻ったような気すらする。妹がまだ生きていた頃は、そういえば顔中で果物を頬張ったり、意味もなく笑い転げたりしていた。……今隣に居るのは違うが、それでもやっぱり妹とダブってしまう。妙に強情なところやら言い出したら聞かないところ、妙にしっかりしてるところ。妹が生きていたらこんな感じで成長していったのだろうか、なんて考えてしまうのだ。
 「アガットさん、準備できましたよ。」
 不意に声を掛けられて、我に返った。少し気を逸らしすぎてしまったらしい。
 「いけるか?」
 荷物を担ぎなおすと、ティータはぴしっと荷物を押さえる。
 「はい、大丈夫です!」
 無駄に元気な声に、じゃあ行くか、と応じた。
 休憩はおしまいだ。エルモ村まで残りの道はあと半分ほどだった。
 
 
 「まあまあ、よく来たねえ。」
 紅葉亭の女将は、ティータの姿を見るなり相好を綻ばせた。
 「えへへ、マオお婆ちゃんこんにちは。」
 「おう、久しぶりだな。」
 後ろから挨拶すると、女将はおや、と顔を上げる。
 「あら、アガット。あんたが送ってきてくれたのかい。」
 「まあついでにな。手配魔獣の依頼、出してただろ?」
 言うと、ああ、と女将は納得したように頷いた。
 「そっちも一緒に片付けてくれるんだね。助かるよ。
  歩きっぱなしだっただろうし、ちょっと休憩しておいき。お昼はまだなんだろう?」
 その間に鍵を用意しておくから、と言われて顔を見合わせる。とはいえ、ティータも同行していることだ。
 「まあ、そうなんだが……悪いな。」
 「えへへ、ありがとう。」
 素直に頷くと、女将は、そうだろう、と笑った。
 「じゃ、そっちのテーブルで待ってておくれ。すぐに持ってくるからね。」
 そう言って、台所の方に消えていく。
 「じゃ、待ちましょうか。」
 「そうだな。」
 ぱたぱたと先導するティータについてテーブルに着く。荷物を下ろして少しすると。女将は鍵とお茶と軽食と共に現れた。
 「じゃあこっちが裏山の鍵だね。多分洞窟の奥だけど、気をつけていくんだよ。」
 「おう、悪いな。」
 手渡された鍵を握ると、女将はもう片方の鍵をティータに渡す。
 「そしてこっちがポンプ小屋の鍵。少し勝手が違うかもしれないけど大丈夫かい?」
 「うん、大丈夫だよ。しっかり改装用の道具も揃えて来たし、きっちり整備するから。」
 ぐっと拳を握る姿は子供っぽいのだが、それでも技師の卵の気概を感じさせる。
 女将もそう思ったのか、頼もしいねえと言いながらまたカウンターに引っ込んでいったのだった。
 
 昼食終了後。
 改装材をまとめてポンプ小屋まで運んでしまえば、ここからはもう一つの仕事の時間である。
 一応ティータには力仕事なら手伝えると言ったものの、そんなに難しい事でもないし、多分大丈夫だから、と追い出されてしまったのだ。まあ、単純に機械がらみの事だけなら一緒に居ても特に意味はない。それなら自分の仕事をさっさと片付けるだけだった。
 裏山入り口の鍵をあけ、洞窟までを歩いていく。
 いつか執行者が現れた時は大変だったな、などと思いつつ中に入ると、そこは相変わらずの蒸し暑さだった。灯り片手に手持ちの水の分量を確認して先に臨む。出てきていた敵はなんだったか、思い出すのはそう難しい事ではなかった。余り気持ちのいいものではなかったのだけは確かで、一番の敵は間欠泉。
 戦闘になったときの足場を確認する意味でも、慎重さが必要だ。先の様子を観察し、噴出す間欠泉を避けながら先に進むと、程なくして周囲から魔獣が沸いて来た。雑魚の蠢く気配に上等、と口端を上げる。ひとまず回りに三体。その奥にもわらわらと出てきたらしい。
 先手必勝だ。
 間欠泉の場所を横目で確認すると、アガットは重剣を構え、奥へと駆け込んでいったのだった。
 
 
 *********

 
 整備ついでの改装作業は順調だった。元から悪いところは特にないのだから、整備と換装と調整を繰り返していけば事足りる。それでも性能が上がっていくのは目に見えていて、なかなかやりがいのある仕事だった。
 仕事、自体は良かったのだが。
 一休みの小屋の中で、はあ、と息をつく。
 先ほど、行って来ると出て行った人の事を思うと、ため息しか出なかった。
 珍しく。二人で。行動できていると言うのに。実は護衛がアガットになると聞いてからとてもとても楽しみにしていたというのに。今ひとつ浮かない気持ちになる理由はただ一つ。
 『ガキのくせにいちいち遠慮すんな』
 『そんな事言ってる時点でチビスケだっつの。』
 思い出せば思い出すほどため息しか出てこない。
 言葉も視線も優しいけれど、その優しさは、どこまでも子供に向けるものと同じだった。
 色々あったし、共に旅をした期間もかなりある。少しは一人前と認めてくれているのだと思っていたのに。
 何という事は無い。二人きりになったら、子ども扱いに拍車が掛かっただけだったのだ。
 はああ、とため息をつく。
 極偶に、アガットは酷く優しい顔を見せてくれる事があった。今日も、休憩中にそんな顔をしていて、あ、と思ったのだ。びっくりする位優しくて穏やかで、普段とは別人のようで、それでもその表情をしているアガットは好きだった。普段がかなり無愛想でつっけんどんなので余計にそう思う。
 そして、あの表情が向けられるのは恐らく自分だけだろう、というのも何となく感じていた。
 でも、特別な人だから、なんて理由ではない。妹さんと重ねているからだ。
 さすがにわかっていた。それは少し嬉しいようで、少し悲しくて、ほろ苦い。
 私を見て、なんて今は言えないけれど。
 
 『そんなにしてるとほんっとガキだな。』
 
 楽しげな笑顔を思い出しても、ため息しか出てこなかった。
 気を取り直そうとスパナを手に取る。
 子ども扱いはいつまで続くのだろう。
 ……自分はもう14で、技師としても働き始めているのだけど。
 
 ガタガタと古い部材を纏めると、結構な分量になった。心なしか改装でスリムになったポンプ設備を眺めてみれば、整備しながら拭き掃除までしたおかげでそれなりにピカピカだ。
 後はポンプを再起動して上手く動けば終了だった。部分部分でのチェックはしたが、全体のチェックはやはり気合が入る。
 「よしっ。」
 スイッチオン、と電源を入れると、ポンプ装置は以前よりも随分静かに動き出した。
 機器の表示よし、計器も大丈夫。外のポンプまで走って温泉の調子を確認する。水量よし、温度もよし。
 「うん、上出来!」
 ぐ、と拳を握り、ポンプ小屋に引き返す。資材の運搬は後にすることにして周囲の確認をすると、ティータは小屋を出る事にした。鍵を閉めて空を仰げば、傾いた日が出迎える。随分時間が経っていたらしい。この分なら、そろそろアガットも戻ってきているだろう。
 まずはマオお婆ちゃんに報告、そしてツァイスの方に首尾の連絡と運搬車の手配、今日中に帰れるかどうかをアガットと相談。やる事はまだまだある。階段を駆け下り、宿の戸を開けると、マオお婆ちゃんはいつものように受付で仕事をしているところだった。
 「マオお婆ちゃん、お待たせ!整備終わったよ。」
 「ああ、ティータ。ありがとう、ご苦労だったね。」
 「ううん、今回は整備がメインだったから。
  えっと、お婆ちゃん。通信機貸してもらえないかな?中央工房の方に整備終わったって連絡したいんだけど……あと、運搬車の手配も確認したいんだ。」
 矢継ぎ早に声を掛けると、ああ、うん、わかったよ、とマオは快く通信機を貸してくれた。
 「あ、あとポンプの確認してくれる?操作は変わらないけど、格好がかなり変わったから。」
 通信機を手にとってそう言うと、マオははいはい、と笑って頷いた。
 「わかったよ。ふふ、ティータも一端の技師みたいになったねえ。」
 「えへへ、そうかなあ。」
 その言葉は素直に嬉しい。頬をゆるませて受話器を耳に当てると、程なく通信は繋がった。
 「もしもし、こちら、ティータ・ラッセルです。……」
 必要事項を伝えてしまえば、今日の仕事は完遂だ。
 「……はい、……はい。明日ですね。わかりました。よろしくお願いします。」
 ちん、と通話を切って、マオの方に向き直る。
 「マオお婆ちゃん、ありがとう。うんとね、明日資材運搬車が来てくれるから、廃材は明日片付けることになるみたい。
  ポンプの確認のときに、その説明もするね。」
 「ああ、わかったよ。じゃあ、早速行くかい?」
 「うん。お願いします。」
 言ってまた小屋に引き返す。説明と状態の確認が終われば晴れてお仕事完遂だった。
 「随分頑張ったねえ。」
 「えへへ、それほどでも。」
 褒めてもらえるのは素直に嬉しい。宿に向かう道すがら、一仕事終わった……と思った所で、そうだ、と思いだす。
 「そういえば、アガットさんはもう戻ってきてる?」
 「いや、まだ戻ってきてないよ。」
 その言葉に、思わずマオの方をむく。
 「え。……そうなの?」
 「ああ。そろそろ戻る頃合だと思うんだけど。」
 視線は裏山の方。夕暮れも迫っていて、戻る頃合というより、既に戻るには遅い時間だ。
 どうしようもなく胸騒ぎがした。
 「……早く帰ってくればいいんだけど。」
 「もしかしたら入れ違いで帰ってきているかもしれないだろう。」
 とりあえず戻ろう、といわれて宿に戻る。
 しかし、宿に戻ってもアガットはまだ戻ってきていなかったのだった。
 
 あれから三十分は経つが、アガットはまだ戻って来ていない。外はすっかり夕暮れ時だ。
 用意された部屋で、荷物と一緒に置いていた導力砲を手に取る。そして、荷物の中から薬と水とオーブメントを引っ張り出して小さなポーチに入れた。導力砲はアタッチメントを取り替えて、大出力砲に作り変え、それを肩から提げてみる。回復弾も高出力弾もばっちりだ。
 旅していた頃を思い出すようだった。でも、あの時よりは多分役に立てる、気がする。
 『チビのくせに!無茶やってんじゃねえよ!!』
 出会ったばかりの頃、ひっぱたかれた頬の痛みは忘れていない。
 行ったら確実に怒鳴られるし怒られる。心底から。それも間違いないことだ。
 それでも、行かなきゃ、と思った。
 胸騒ぎはいつぞと同じ類のもの。このままほっといてもいい事なんて絶対にない。行かなくて後悔するより行って後悔する方がマシだ。それに、取り越し苦労ならそっちの方がいいに決まっている。
 装備確認。仕上げに陽炎のクオーツをセットして部屋を出た。宿から出ると、足は自然に駆け出していく。
 走っていった先、裏山に続く戸はやっぱりまだ開きっぱなしだった。どうやらアガットはまだ戻っていないらしい。そこから続く道を上ればすぐに洞窟がある。だが、辺りを見回しても、アガットらしい姿は見えなかった。
 ごくっとつばをのんで明かりをつける。そして洞窟の中に一歩ずつ踏み出した。中の様子はなんとなく覚えている。ミミズと気持ち悪い虫が一杯居て、間欠泉が湧き出していて蒸し暑くて、居心地はお世辞にもいいとはいえなかったのは間違いない。
 注意深く辺りを照らし、間欠泉を避けながら進んでいく。
 幸いな事に、なぜか魔獣はこの辺りには居なかった。分かれ道の向こうにも気配はない。ただ、魔獣の残骸と思しきものは転がっていた。どれも絶命しているらしく動きはしないが、結構な数である。恐らく、アガットはこの辺りの魔獣も掃討しながら先に進んだのだろう。
 灯りで四方を丹念に照らして、誰か居ないかを確認していく。しかし、あるのは魔獣の残骸ばかりだ。誰かが居る気が全くしない。
 ……でも、この先にアガットがいるのだけは間違いなかった。
 肩にかけた導力砲に手を掛け、先に進む。
 「アガットさん、無事で居て……!」
 口の中で呟いた言葉が洞窟に小さく反響した。
 最奥に行く道は覚えている。わき道に行き当たるたびに入ろうか迷うが、どこに行ってもすれ違う可能性は変わらないと思って真っ直ぐ最奥を目指した。地下の湖を抜けて細い道を行く。そこかしこに転がっている魔獣の残骸が、道しるべの代わりになった。
 残骸の分量は奥に行くにつれ増えていく。しまいには池の中にまで残骸が浮かんでいて、思わず悲鳴を上げそうになった。動かない事がわかれば息もつけるが、聞えてくるのは相変わらず間欠泉の飛沫く音と反響音だ。
 だが、次第にその音に何か金属音が混じって聞えてきた。
 ……いる!!
 よく聞けば音はそこまで遠くない。反響の具合からすると源泉の反対側……多分、前に執行者の人がいた所。
 思った瞬間、ティータは駆け出していた。
 間欠泉の間を縫い、走るだけ走れば目的地まではすぐだ。ここまでは敵は居なかった。が、奥のほうには何かざわざわと蠢く感じがしている。それと、間違いなく聞き知った人の声。
 導力砲を抱えて最奥の洞を窺うと、アガットが魔獣相手に剣を振るっているところだった。わらわらと蠢く魔獣の群れと、それを率いるように一際大きな魔獣。
 どう見ても多勢に無勢だ。
 行動は一瞬も迷わなかった。
 高出力弾を装備、広範囲モードに切替、照準、あの大きいの……!
 「いけええええ!!!」
 声と同時に、派手な音と閃光が魔獣の群れをなぎ払った。
 突然の乱入者に魔獣も驚いたらしく、動きが一瞬止まる。
 「な、ティータ?!」
 だが、渦中のアガットはそれの倍は驚いたようだった。ぎょっとしたように振り返る。その後ろからまた魔獣が襲い掛かるのが見えた。
 「アガットさん!後ろ!」
 言いながら高出力弾二つ目を放つ。目標はアガットの後ろから来ている虫型魔獣だ。ばんっと破裂させて吹き飛ばすと、アガットはまた剣で円を描くようにして魔獣に向き直った。
 「なんで来た!!」
 背中越しの怒鳴り声は明らかな怒り声だが、もう怯んでいる状況はとっくに通り越している。
 「帰りがあんまり遅いから!心配になったんです!!」
 怒鳴り返して三発目を放つ。
 「アホか!」
 斬撃とたたきつけるような声は同時だ。
 「こんな修羅場にガキが首突っ込んでんじゃねえ!!」
 ただ、その文言には怯むよりも怒りの方が先にきた。
 「……ガキガキって……!」
 ガッと一歩踏み出し、狙いを定める。
 「私はもう十四です!」
 言葉と同時に四発目を発射した。
 「助けにだって、なれます!!」
 「そういうとこがガキだっつんってんだ!!また足手まといになりたいのか!!」
 「出来る事と出来ない事くらい、解ります!」
 さらにもう一発を叩き込む。
 「これは、出来る事です!!」
 叩き込んだ先で直撃を浴びた魔獣が潰れる。アガットは舌打ちしてその周りをなぎ払った。
 「クソッ……!
  ああもう、絶対怪我すんなよ!いいか、絶対だからな!!」
 言って、アガットは敵に向かって走っていく。分断されては危ないという判断は瞬時についた。砲弾を撃ち込んで道を開ける。アガットの背から攻撃してくる魔獣が居ないように。
 高出力弾はそんなに持ってきては居なかった。道中魔獣に襲われた時のお守り程度にしか考えていなかったし、改装用の資材もあって余り持てなかったのだ。
 だが、導力砲は以前よりかなり頑張って改造していた。通常弾でも前より威力は高い。戦うのは苦手でも、きっと役に立てると言いたかったからだ。そうでないと、何かあったときに連れて行ってと言えない。役に立つという口実がなければ、認めてもらうどころか、一緒に居る事すらできなくなってしまいそうな気がして、常日頃から努力を重ねていたのだ。
 広範囲モードのまま、大物以外の敵を跳ね除ける事に専念する。アガットの武器は基本が単体向けだ。攻撃力はあるが、辺り一掃には向いていない。だが、自分は違う。弱くても、辺りをまとめて吹き飛ばす程度ならできる。近接で攻撃されたら自分はとても保たないが、周りを吹き飛ばしている間に大物を倒せたら、形勢はかなり良くなるはずだ。
 それはどうやらアガットも解っていたらしい。
 「サポート頼む。俺はあのデカブツをやる。」
 背中から聞こえた低い声が、この場面なのに嬉しかった。
 「ただし、自分の身を最優先にしろよ。」
 「はい!」
 短く応えて通常弾を撃ち込む。アガットの背後を守るように位置を取り、大物の傍に照準を合わせる。大丈夫だ。以前の旅の間にも、共闘する機会なんて山ほどあった。あのときと同じ。そう思うとなんだか安心する。
 「行くぜ!!」
 アガットが吼えると同時、最後の高出力弾が大物の傍で炸裂した。
 
 
 
 後に残ったものは、魔獣の残骸。
 そして荒い息をつく二人。
 「……何とかなった……」
 へとん、と座り込むと、背中にどん、と大きな背中が当たった。
 「……あー、なんとかなった、な。」
 背中合わせに座り込む場所は、魔獣の残骸の真ん中だ。動くものは自分たち二人だけ。
 「怪我はないか?」
 振り返った声に、息をついて顔を向けた。
 「はい、……大丈夫です。アガットさんは?」
 「……まあ、大丈夫だ。」
 言ってアガットははあ、と息をつく。言っているよりダメージも疲労もあるらしい。
 回復弾を装填し、上に向かって打ち上げた。光がぱらぱらと降ってきて幾分気力が戻ってくる。
 「……ありがとうな。」
 「いえ。あと、これも。」
 ポーチに入れていた小型の水筒を渡すと、アガットは驚いたようにこちらを見た。
 「どうしたんだこれ。」
 「薬とか水とか一応多めに持ってきたんです。
  あんまり遅いから、洞窟の途中で倒れてるかもって思って、心配で……。」
 でも無事でよかった。そう言うと、アガットははああああっと深いため息をついた。
 「あのなあ、俺だってガキじゃねえんだ。倒れる前に戻ってくる位は出来る。
  もし倒れてたとしても、一人で探しに来んな。危ねえだろが。」
 ぎ、と見つめる視線はとても厳しい。だが、こちらも覚悟を決めて探しに来たのだと思いなおす。
 「何かあってから、探しに行けばよかったって後悔するより、取り越し苦労でアガットさんに怒られる方が何倍もマシです。
  それに、ここまで魔獣も居ませんでした。途中に魔獣が居て、ダメだと思ったら私だって引き返したと思います。
  ……無茶はしない、って約束しましたから。」
 きっぱりといって、空色の目を見返す。ぱちん、と目が合って、じっと焦げ付いて、そして結局アガットは息をついた。
 「ったく口ばっか達者になりやがって。
  大体お前の腕は、こんな荒事に使うもんじゃねえだろ。お前の爺さんみたく技術開発とか整備とかそんな方に使うもんじゃねえのか?」
 大切にしろよ、と言われて、言葉に詰まる。
 「それは、そうですけど……」
 確かに自分の腕は技師の腕には違いない。技師という仕事を認めてもらえたようで嬉しいのもあって言葉に迷う。でも、だからと言って自分がした事が間違っていたとは認められなかった。
 「でも、出来る事は手伝いたいです。
  それで誰かを助けられるなら、例え荒事になったって、間違った事をしたとは思わないです。」
 一言一言、言葉を探しながら言う。
 「……私の腕も……半人前ですけど技師の腕には違いないですから、それなりに大事にはしますけど。」
 ありがとうございます、と言うと、困ったようにアガットの表情が揺れた。
 「なんでそこで礼を言うんだ。」
 「なんか、技師として認めてもらえたみたいで嬉しくって。」
 えへへ、とこんな局面なのに笑いが漏れる。
 「でも、間違った事はしてないって、思ってます。」
 きっぱり言うと、アガットははあ、と呆れたような諦めたような表情で息をついた。
 「……お前案外強情なんだなあ。」
 「でも、そこまで足手まといにはならなかったはずだし。……何とかなったでしょう?」
 緩んだ空気に頬がほころぶ。
 「ああ、……随分助けられたな。」
 そう言うアガットの表情も諦めたように緩んでいたのだった。
 
 
 「どれだけ!心配したと!思ってるんだい!!!」
 泣きそうな声が、頭からつま先まで駆け抜ける。
 ……間違った事は、やってない、と思っていたけれど、……さすがにこれは反省するしかなかった。
 「……ごめんなさい……。」
 小さくなって頭を下げると、泥だらけ残骸だらけ汗だらけの身体を、マオは躊躇なく抱きしめる。
 「全く、無茶ばかりして……!!」
 「……全くだぜ。」
 ぼそ、とアガットの声が聞える。それと同時にマオの顔はキッとアガットの方を向いた。
 「アンタもだよ!
  予定より遅くなりそうなら!一度連絡を入れるくらいできるだろう?!なんでこんな事になったと思ってるんだい!!」
 うぐ、と詰まった声。
 「……悪かったよ。」
 気まずそうな声には、後悔も滲む。
 洞窟の帰りは、アガットがしっかり掃討していたおかげで何事もなく戻ってこれたのだが、村に戻ると辺りはすっかり真っ暗だった。これはマオが心配しているかもしれない、などと言いながら宿に戻ると、案の定マオから大目玉を食らったのである。
 「全くっ!!一人前だっていうなら!連絡と報告くらいしな!基本だろう!!」
 ガミッとしたお説教には二人してうなだれるほかなかった。正論であるというのが一つ、心底から心配されていたのがひしひしとわかったのがもう一つ。言い返すなんて出来るわけがない。
 反省を読み取ったか、全くもう、と言ってマオは身体を離す。
 「……とりあえず、だ。食事の前に、その酷いナリをどうにかしておいで。食事は用意しておくから。いいね。」
 びしっとした言葉には逆らうことは許されず、また言っている事は当然の事だった。
 「……はい。ありがとうございます。……ごめんなさい……」
 「おう。……すまねえな。」
 一瞬顔を見合わせ、大人しく部屋に向かう。部屋では、既にぴしっと準備されたお風呂セットが、ベッドの上で客を待ちわびていたのだった。
 
 
 時間が遅めだったせいか、温泉には誰も居なかった。
 どろどろの身体をひとまず洗って湯船に入る。
 さすがに疲れていたのか、湯船に入ると同時に身体が溶けていくような感じがした。そのままずぶずぶと沈んでいってしまいそうになって、慌てて身体を起こす。
 もう少しお湯には入って居たいけど、このままでは寝てのぼせてしまいそうだった。
 遅い時間だからか、外も随分静かだ。この分だともしかして、と思ってタオルを身体に巻きつける。
 そっと外を窺うが、人影は特に見えない。
 「誰か居ますかー?」
 声を掛けても、自分の声が湯船に響いただけだった。
 よし、と思ってそのまま外に出る。夜の少し涼しい空気が少しだけ目を覚ましてくれる。ちゃぷ、という水音も一人だけのものだ。
 「……はああ……」
 随分豪華な貸切状態に、思わず声が漏れた。
 くったりと岩に身体を預け、他人が居ないのをいい事に、思い切り身体を伸ばす。気持ちよすぎてこれはこれで溶けてしまいそうだった。ぱちゃんぱちゃんと緩く足を動かして、また身体を伸ばす。
 「……ふわあ……」
 一通り伸ばして、また身体を弛緩させる。本当に天国だ……と思っていたら、男湯のほうから声がかかった。
 「ティータ、そっちに居るのか?」
 アガットはどうやら内湯に居るらしい。
 「あ、はい。こっちは貸切ですよー。」
 力が抜けていたせいか思い切り言葉が伸びて、思わず姿勢を正す。
 「そうか。こっちも貸切だ。
  そりゃともかく、お前、怪我とかしてなかったか?」
 掛けられた声に思わず身体を確認して、……不要である事を思い出した。その確認が必要なのは大体アガットの方である。
 「ええ、大丈夫です。アガットさんの方こそ大丈夫でしたか?」
 「ああ、いつもと変わんねえよ。」
 声は落ち着いているものの、アガットのその台詞くらい信用ならないものは無い。
 「そんな事言って、また酷い怪我してるの誤魔化したりしてないですよね?」
 にわかに心配になって声を上げると、大丈夫だっつの、といつもと変わらない返事が帰って来た。
 「大体お前見てただろうが。」
 半呆れの声は、何かを誤魔化しているように聞えなくもなくて怪我の有無は半々といったところだろう。
 「合流する前に怪我とかしてないですか?」
 「してたらあんなに動けねえっつの。」
 「でも。」
 「それに、一番危ないトコで誰かが飛び込んできやがったからな。」
 ほいっと投げられた言葉に、思わず息を呑んだ。
 「えと、あの、……その……」
 上手く言葉が続かない。もごもごと口ごもっていると、男湯の方からまた声が飛んできた。
 「……ま、礼は言っとく。」
 「え、あ、はいっ!」
 反射的に返事をしてしまって、慌てて口を押さえる。ちがう、こんな返答をしたいのではないのだ。
 ただ、嬉しかったのは確かで、でも、それを伝える言葉が見つからない。
 「だがな、女将も言ってたが、他人に心配かけるような真似はするな。
  無茶やった結果取り返しの付かなくなる事だってあるんだからな。
  ……出来るっつったって、危ねえもんは危ねえんだ。」
 そんな事させちまった俺も悪いんだろうがな。と、戸の向こうの声がため息をつく。
 「そんな、アガットさんは、悪くないです。」
 後悔の色に気づいて、反射的に言葉が出た。
 『無茶やった結果取り返しがつかなく』なったのは、自分ではない。亡くなった妹さんだ。後悔の色が見えたのもそれを引きずっているからだと、知っていた。
 それなのに、自分は随分真っ向から啖呵を切ってしまったのだ。今更気づいたが、言った事は取り消せない。
 「でも……その、ごめんなさい、気をつけます。」
 やっと引っ張り出せたのはそんな言葉だけだった。
 それきり、気まずく沈黙が落ちる。
 風の音が少し聞え、小さなはずの水音がぴちゃ、と響いた。
 ……ややあって、あー……という声と共にもう一度男湯から声が飛んでくる。
 「お前、さっさと内湯戻れ。」
 「はいっ?」
 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
 「俺が出れないだろが。」
 「へ?! え、あの、こっち混浴ですよ?」
 早口の言葉に返ってきたのは深いため息だ。
 「馬鹿、一応お前も女だろが。」
 目を見開き、思わず男湯の方を見てしまった。
 「いいから、さっさと戻りやがれ。俺が茹る。」
 閉まったままの戸から聞えるそんな声。
 「え。」
 一言一言が、耳を疑いたくなる位意外だった。そもそも、仕事とはいえ一緒に入った事もあるし、10年前に亡くなった妹さんと大差ないと見られているのだから、気にするなんて思っていなかったのだ。でもどうにも嬉しくて、顔に血が上るのが解る。
 一応、でも、だ。間違いなく今、チビやガキじゃなくて、女扱いされたのだ。
 「は、はいっ!わかりました!!」
 このままだと、間違いなく茹るのはこっちだ。完全停止しかけた頭を無理やり動かして、慌てて湯から上がる。そのまま、ばたばたと内湯に戻ってばたんと戸をしめて息をついた。
 「も、もういいですよ……!」
 男湯の方に声を掛けると、おう、悪いなーと声がして、戸が開く音がした。
 当たり前の話なのにとても心臓が跳ねる。この後は食事なのだが、顔が果たして見れるだろうか。真っ赤になっていたら間違いなく不審に思われるだろう。へたん、と座り込んで、それじゃいけない、とまた立ち上がった。
 立ちくらみしかけた体を進め、なんとか更衣室にたどり着く。そして、冷たい水でぱんぱん、と顔をはたいた。
 鏡に映った自分の顔は、お風呂上りと言うのも相まって、湯あたりでもしたかと言うくらい真っ赤で、へにょりと笑いが漏れていて、格好のつかないことこの上ない。こんな事で嬉しいと思うのもどうかしているのに、嬉しいのだから仕方ない。
 ……少しは、認めてくれたのかな。
 タオルで顔を抑えて、目を閉じる。
 ……それなら、ちゃんと一人前にならないと。
 三つ数えて、心を落ち着ける。目を開き、タオルを外す。
 見えた鏡には自分の姿が映っている。
 でも、その姿はなんだか嬉しそうで、少しだけ落ち着いたように見えたのだった。
 
 
 「整備改装はばっちりできましたし。」
 「洞窟内もしっかり掃討できたから、しばらくは魔獣の心配もしないでいいだろう。」
 仕事はばっちりだったな、と笑うと、そうですね、とティータも笑い返す。
 が、それに、女将のため息が割り込んだ。
 「連絡と報告さえ怠らなければね。」
 「う。」
 耳が痛かった。怪我をさせなくて済んだのは良かったが、ティータを洞窟内まで来させてしまったのは半分は自分のミスだ。出来る事だと言っていたし、実際出来なくは無いと思ったが、……やっぱり一般的にはアレは無茶の領分である。
 「全く、心配掛けて。」
 ぴしっとした女将の声はまだ厳しい。
 「……すみません。」
 反省しているとみえて、無茶した当の本人は小さく縮こまっていた。その姿を見て、やれやれ、と女将が声を緩める。
 「ま、無事だったからよかったんだけどね。」
 ふう、と息をつき、そして女将はこちらを見上げた。
 「……それじゃあ帰りも気をつけるんだよ。ちゃんとティータを守ってやっておくれ。」
 「おう、任せとけ。」
 頷くと、女将はティータのほうに向く。
 「ティータも、今度は無茶はしないようにね。」
 「あ、はい!」
 ぴょこんと顔を上げ、こくこくと頷く姿はまるきり小動物だった。
 でも、初めて会ったときより随分落ち着いている気がする。
 
 『私はもう14です!』
 『出来る事と出来ない事はわかります!』
 
 洞窟内で切った啖呵といい、自分の腕を無駄にしない態度といい、成長したのもきっと間違いないだろう。
 それはなんだか好ましい事に思えた。
 ふ、と息をつき、女将に向き直る。
 「じゃ、行くか。女将、世話になったな。」
 「マオお婆ちゃん、お世話になりました!」
 きちんと向き直って一応の礼をする。
 そして、またおいで、の声に見送られて村を後にした。
 「帰りも何事もないといいですね。」
 てくてくと歩きながら言う声に、ばーか、と肩をすくめて見せる。
 「何も起こさせねえよ。」
 昨日来た道も今日戻る道もまた同じ、平和な道なのだ。
 途中にオレンジがあって、と思い出して、そうだ、と声をかける。
 「またあの木の方に寄ってくか?」
 言うと、嬉しそうな声が返事をした。
 「あ、いいですね。あのオレンジ美味しかったです!」
 少しはしゃいだ声に目をやると、気持ちいい笑顔と目が合って、思わず笑いが漏れた。
 朝の涼しい風の中、その一歩を踏み出す。
 行く先には広いトラット平原道が広がっていた。
 


ここまで長々お読みいただきお疲れさまでした。
本出そうかなって思って書いてたけど結局お蔵入りになって幾星霜立ったところで掘り返したもので、このボリュームになっております。
1回合同誌に参加させていただいた時に、アガットさんがめっちゃ頑張る話を書いたので、2回目書くならティータがめっちゃ頑張る話にしようというコンセプト。あと背中合わせで戦うやつ書きたかったのです。
可愛いシーンをひたすら詰め込むんだと思った結果、話にまとまりがなくなったのはまあご容赦ください。
Falcom TOP