川向い

水天宮。
筑後川の福岡側にある神社である。天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼を祀る旧い神社で、全国の水天宮の総本宮でもある。広い境内には碑や社が点在し、入り口には背の高い狛犬がこちらを見下ろしている。とはいえ、近所に保育園があるせいか、普段はそこそこ和やかな場所だ。
しかし、梅雨前のある日。そこは、少しだけ物々しい雰囲気で満たされる。

お祓いと祈願が済み、社殿から出てきたのは、福岡県と佐賀県両方の知事と、筑後川隣接市町村の長、そして土木関係の技術者といったそうそうたる顔ぶれだった。佐賀と福岡もその後から社殿を出る。お互いの関係者たちを見送ると、境内に残った二人は、ふうと同時に息を付いた。
「平成になっとーとに雨乞いって、ねえ。」
福岡が仰ぐ先は、先ほどまでいた社殿だ。
「そいは去年も聞いたぞ。」
「佐賀も去年と全く同じ事言うとらんね?」
「福岡が毎回同じ事ば言うけんな。」
やれやれ、と佐賀も社殿の方を仰ぐ。水天宮の社は、いつもどおり静かにそこにあるだけだが、その先にもう一度礼をした。
「熱心やねえ。」
言っている福岡も、隣で拍手を打っている。人の事がいえるのか、と肩をすくめた。
「ちゃんと雨が降りますように。」
そして降り過ぎませんように。
心の中でもう一度手を合わせる。昔から続き、この平成の時世でもかなり切実な祈りだった。
筑後川をはさんで隣り合う二県は、この川を巡って国として意識が芽生えた頃から随分長い事争ってきた。人死が出た事もある。農業用水として、海に注ぐ第一の河として、筑後川の水はお互いにとって死活問題だったからだ。
「今年は喧嘩せんごと。」
「本当に。あんたは頑固かけんね。」
せからしか、と肩をすくめる福岡に、頑固なのはどっちじゃと息をつく。
「無理押しして来っくせに譲らん。」
「そりゃあ、こっちも生活掛かっとーけん。佐賀も全然融通効かんやん。」
「そりゃうちも同じじゃ。譲れんものは譲れん。」
このご時世の雨乞いは単なる年中行事の儀礼……と見せかけて実は数年前に火花を散らしたばかりだった。雨乞いは大事なのである。
「ただでさえ水不足やっとーとに少しくらい」
「慢性的な水不足は、譲る理由にはならん。」
すべて言う前に切って捨てる。
「ちかっぱ頑固ね。」
「これでも県ば背負っとっけん。」
「それはあたしも一緒たい。」
ぴし、と目が合った。譲れないものは譲れない、とお互いの瞳に認めで、すこし瞳が緩む。
「今年は喧嘩せんごとせんばな。」
「神様に頼むしかなかね。ちゃんと機嫌取ったほうがよかとかなあ。」
機嫌を取る、といえば奉納なんやけど、と言っていた福岡が、ああとこちらを向く。
「今年の花火も豪華にするから、って言ったら、ちゃんと仕事してくれんやろか。」
ぽん、と手を打つ姿がなんとも無邪気で、思わず噴出した。
「悪くはなかっちゃなかか?」
「よし。
 神様神様、今年の花火も豪華にするけん、期待しとってよかけん、なにとぞちゃんと雨を降らせてください。」
三回目の祈りに便乗して社殿に頭を下げる。おどけたような顔で祈っているが、実際のところ本当に切実なのは理解していた。
「ちゃんと梅雨ば越えきったら御礼はせんぎいかんやろうな。」
「じゃあ今年の花火はこっちに来っとね。」
無邪気な顔がそのままこちらを向く。その表情にはどきりとして、そんな話では、という言葉も出てこない。
「約束よ。楽しみにしとーけん!」
がし、と腕がつかまれて、キラキラした目がこちらを見上げる。
県の権益だの利益だの立場だののためならいくらでも強硬姿勢を貫けるが、こういうのにはどうにも弱かった。結局、ああ、まあ、とうなづく事になる。
「浴衣何着よっかなあ。」
先ほどまでの姿はどこへやら、いつものお調子者がうきうきと歩き出す。
「まだ二ヶ月先やっか。」
付いていきつつあきれて言うと、福岡はくるっと振り返った。
「もうあと二ヶ月、って言うとよ。」
準備は始まっとーとやけん。
気持ちが既に二ヶ月先に行っている福岡を眺め、もう一度社殿を振り返る。
楽しみにしている福岡の顔を曇らせるのは、仕方ない事があっても避けたい。
それに自分だって、あの花火は結構楽しみなのだ。
だからもう一度神様に祈った。

……今年はちゃんと水が足りて、喧嘩せずに花火が見れますように。




このネタいつか書きたいと思ってた……!んだけど、タイミングが豪雨だなんだでシャレにならなくて年単位で放置してました。
平成のこのご時世に未だに両県の代表が水天宮に「ちゃんと雨が降ってけんかしないですみますように!」てお願いに行ってるというこの可愛いんだけど切実な事実はもうちょっと知られていいと思いました。ちなみに10年くらい前には願いむなしく雨降らなくて実際喧嘩になったんだそうです。
平成のこのご時世でもお水は大事。
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