着物の日

雨が増え、じわじわと暑くなってきた。
今は六月。田植えもなんとかひと段落し、すぐに訪れるであろう夏をひしひしと感じる季節。
携帯電話のベルが突如として鳴り響いた。


「歌舞伎のチケットがあるっちゃん。」
電話口の福岡は開口一番そう言った。
「ペアで貰ったとばってん、佐賀、一緒に行かん?」
博多座よ、博多座!団十郎の来っとよ!と、テンションの高く唐突な話に頭が上手く追いつかない。
しかし、そう言われて見れば確かに、六月の博多座は大歌舞伎だと何かの情報誌で見た気もした。ただ、名のある役者の舞台とあって、チケットは高値だったはずだ。
「そりゃよかばってん……よかとか、そんな高価なもん。」
「よかさ。仕事先で貰ったもんやし。」
しかし、此方の戸惑いなど意味がないように、福岡はあっけらかんとしたものだった。
「あたしも半分は付き合いさね。それにもったいなかやん。」
「そりゃそうじゃな。」
本当にいいのか、という思いはまだ少しあるものの、ふいにするのは確かに勿体無い。
「そいないば、ありがたく付き合わせてもらうばい。」
ありがとうな、と、ひとまず礼を言うと、電話口の向こうは俄然明るくなった。
「よかよか!じゃあこれで決まりね。」
「わかった。楽しみにしとる。」
了解を伝えると、福岡の声がさらにはしゃぐ。
「じゃあ、佐賀。博多座行く時にちょっとお願いがあるっちゃけど、よかよね?」
「あ?ああ。なんね?」
勢いに押されるように聞き返すと、電話口の向こうからえへへ、と笑う声がした。
「着物ば着てきて欲しかとよ。」
「着物?」
思わず聞き返す。福岡は電話口の向こうでうんうん、と頷いているらしい。
「そう、着物。よかろ?」
「そりゃあ、まあ……。」
着物は着るに抵抗はなかった。昔は日々着ていたものである。
「ばってん、ぬっかっちゃなかか?」
……しかし、この暑いのにと思う程度には佐賀も現代に生きていた。
「夏物くらいあるやろうもん」
「そりゃあ……あるばってん。」
「ならよかろ?」
妙に食い下がる。確かに、別段困るという事は……ないとは思うのだが、珍しいには違いない。この季節の着物は暑いことだけは確実で、福岡もそれはわかっているはずなのだ。
だから、なんでだ、とまた聞いた。返答は一言。
「着物の日なんよ。」
「着物の日?なんじゃそりゃ。」
聞きなれない単語をオウム返しに問う。
「博多座に着物で行ったら記念品貰える日なん。けん、着物で行こうかと思ったと。
 ばってん、一人で着物着ても寂しかやん。そいけん、一緒に来るなら付き合ってほしかと思ったとよ。」
つらつらと流れる説明は、納得の行く範囲内に収まっていた。
「そういうことか。」
「そうよ。ね、お願い。」
そこまで言われて断る理由も見当たらない。それならわかった、と答えると、じゃあ中洲川端でお昼に!と元気な声が返ってきた。
二、三細かく打ち合わせをして、電話は切れる。
「夏物の着物なんて何年ぶりやろか……」
切れた電話を閉じながら、佐賀は肩をすくめた。歌舞伎を見るなら羽織も引っ張り出さねばならないだろう。どの辺りに埋まっているのか考えながら、佐賀は箪笥の方に足を向けた。


そして、当日。
佐賀は中洲川端の駅で、福岡を待っていた。
「見て、あの人」
「へえ……珍しかねえ」
道行く人が皆振り返る。こそこそと話す声も聞える。写真をせがまれる事5回。先ほどまで居た地下鉄内では客の視線が集中して、果てしなく居心地が悪かった。
今日の格好は、藍色の絽の着物と揃いの羽織に博多帯。昔着ていたものを箪笥からひっぱりだしたものである。しかし、着物姿が増えてきたとはいえ、こんな時に男の着物は珍しかった。おまけにこの季節に羽織まで着ている人間なんてレア中のレアである。
別に見苦しい格好をしているわけではないのに、他人の視線が辛い。空調が効いた所を通ってきたせいか、思ったよりも暑さは苦にならなかったのだが、これは予想以上だ。
福岡はまだだろうか。
落ち着きなくきょろきょろ見回す駅構内には、着物姿の女性も目立っていた。ここを出ればすぐに博多座なのだ。着物の日、と福岡が言っていただけの事はある。
しかし、福岡と落ち合わないことには先に進めない。
彼女らのどれかが福岡、だろうか。そう思って着物姿の女性を目で追っていると、後ろから声を掛けられた。
「佐賀ー!」
聞き慣れた声に瞬間的に振り返る。
「福岡!」
神の助けは、なんとなく懐かしい白い絽の着物を着て走ってきた。そんな行動はいつもの福岡と変わらないのに、髪を上げた姿は妙に慎ましやかに見えて、思わず胸が高鳴る。
「目立つけんすぐ判ったばい。」
なかったことにして、まず指摘すべきは指摘する。
「その格好で走るな、みっともなか。」
「平気平気、前はようやっとったし。」
えへへ、と笑う顔は少し上気していた。正直に言わなくても可愛い。可愛いがゆえに直視できなくて顔をそらす。
「行くか。チケットは?」
「持っとぉ。入り口でまとめて渡すけんよかよ。」
行こう行こう、と。先に歩いていく福岡は、なんだかいつもより背が低かった。追いつくと、ふと至近距離でうなじが覗けて、思わず視線をそらす。完全に目の毒だ。
「あたしたち、めっちゃ目立っとおねえ。」
なんか優越感あるわ、と、此方の気も知らずに福岡は機嫌がいい。
「……そ、そうじゃな……。」
もごもごと答えると、福岡はきょとなんと此方を見上げてきた。
「佐賀?どげんしたと?」
「なんでんなか。」
首を振ってさっさと歩き出す。
「そんなわけなかやん。」
しかし、その羽織の裾はぐいとひっぱられた。
「なんでじゃ。」
振り向いた至近距離には福岡の顔がある。
「そんなら佐賀。今日の私、ちゃんと見た?」
「は?」
聞き返すと、福岡の表情がキッと厳しくなった。
「は?やなかろ。ちゃんと見んしゃい。そして言うべき事があるやろ?」
「?」
言われるまま、上から、下まで。きちんと見てみる。瞳が大きく活発そうな顔立ち、華奢に見えて骨のある体つき。福岡はいつだってそんなものだ。
ただ今日は、珍しく上品に纏めた髪に白の髪飾りが挿してあった。下の襦袢が透ける白の絽の着物は、裾に色が入っていて涼しげだ。濃色の入ったシンプルな博多帯はさすが福岡といったところだろうか、綺麗にあわせていて品がある。あわせた履物も小さな鞄も悪くない。
それに何より、着ている当人が……今日はなぜか機嫌がいいのもあってか、笑った顔が多くて、華やかだ。直視し辛いくらいに。
総合すると、つまり。
「綺麗にしとっやんか。」
「もっと言う事は?」
「……似合うとっ。」
「後一声くらいなかね?」
そう言う福岡の声からは、厳しさが少し抜けていた。という事はこの方向で大丈夫だという事だろう。
……しかし、自分の語彙力は褒める方向にはどうにも乏しい。頭の中を探って、なんとか引っ張り出した言葉も、ありきたりなものだった。
「やぁらしか。」
「着物がね?」
そこまで言われて、ようやく気がつく。
「着物もよかばってん、着物を着とっ福岡も綺麗かばい。」
模範解答を引っ張り出せて内心ほっと胸をなでおろした。しかし次の瞬間壮絶に恥かしさがこみ上げて、思わず顔を抑える。何を言わせるのだ、この女は。
しかし、そんな此方を他所に、福岡はとたんに上機嫌になって歩き出した。
「合格ばい、そいでよかと!佐賀も男前ばい。」
「そ、そうか……?」
追いついて目をやると、福岡はふわりと満足そうに笑う。目に悪いことこの上ない。
「うん。あんたのも前着てた奴やろ?あたしのも前のばってん。」
「ああ。……そうか。」
そういえば、確かに。昔々、見かけた気がしなくもない。懐かしさはそこから来ていたのだろうか。
「帯もお揃い。」
「……そうじゃな。定番やし。」
「そう、定番にしたと。頑張って作りよったとよ?」
「知っとっさ。」
福岡のものも自分のものも、古いだけあって昔懐かしい手織りのものだった。
歩く音も草履の音で、ここだけタイムスリップしたような気がしてくる。
「昔に戻ったごたっな。」
無論、違うものもたくさんある。いや、違うものの方が多い。周りの建物、歩く人たち。めまぐるしく変わる風景と、発達した交通網に通信系。昔は考えもしなかったものが今はあふれている。
しかし福岡は、そうやね、と頷いた。
着物を着ているせいだろうか。今では滅多に見せないしっとりとした所作に、心臓がまたうるさくなる。
これも昔はありえない話だったのだが。

昔と一番違うもの。それは、たまに福岡を直視できなくなる自分かもしれない。
後姿をゆっくりと追いながら、佐賀はそう息をついたのだった。





twitterでリクエスト頂いて書いてみました「和服の佐福」です。
大分ハードルを下げていただいたもので、気楽に楽しく書けました。
博多座の着物の日。粗品もありますが、基本的に博多座には着付けサービスだのなんだのあり、大歌舞伎だと船のイベントなんかもあって、結構着物人口居たりするんですよね。流石に男性が着物なのは珍しいですけど。
リクエストありがとうございました。
戻る