佐賀さんの休日

その日は、とても暑かった。


八月のある日曜日。
その日、彼はいつもどおり朝から行動を開始し、日課もいつもどおり午前中に片付けてしまっていた。 空いた午後は、予定が入っていなければ読書なりなんなり・・・というのがいつもの休日の過ごし方である。
しかし、その日は暑かった。窓は開け放しているし、部屋の中は日陰ではあるし、風も入ってはいるが・・・暑かった。
昼間に冷房を入れるのは、持ち前の倹約精神・・・というかケチさ・・・もとい、エコ精神がどうにもそれを許さない。 図書館に行って読書、というのも考えはしたが、正直な話そこに辿り着くまでが長いような気がする。
いっそ避暑にでも出かけるか、とふと思って、翌日の仕事を思い出して思い直す。もう昼だ。あまり遠出は出来ない。
少し考える間にも勝手に汗はにじむ。その汗はあっという間にぽたりと滴り、肌に落ちた。
・・・汗ば流さんばな。
そこまで考えて立ち上がる。シャワーに掛かろうと浴室に向かって、ふと思いだした。

そういえば、近くにぬるい温泉がある。

プールに行くよりよほど楽である。おまけに安いことでもあるし、山の方だから少しは避暑にもなるだろう。
休日の過ごし方としては、結構有意義なのではないだろうか。
ぬる湯と共に、近くの水汲み場と白玉饅頭を思い出すと、ますますそれは魅力的に感じられた。
車の鍵を指に引っ掛ける。慣れた素早さで簡単に温泉いきの準備をすると、佐賀は心持ち機嫌よく車に向かった。


古湯・熊の川温泉。
佐賀市内の山中に古くからある、鄙びた温泉町である。
佐賀県内でも嬉野・武雄などに比べると知名度は落ちる少々マイナーな温泉だが、泉質は悪くない。前に来た時は、共同浴場も地元の人間を中心ににぎわっていた。
ちらりと車中の時計を確認する。
まだ昼だ。この時間ならば、熊の川の方はまだ入浴料が高い。最低値の三倍は取られる。
そこまで考えて、古湯の方まで車を走らせることにした。
公衆浴場が混みだすのは、値段が下がり地元の人たちが集まりだす夕方以降のはずだ。
今の時間ならおそらく空いている。そう見込んでの事だった。
通りに並ぶ『ぬる湯、沸いてます』ののぼりに、地元の人々の頑張りを感じつつ車を走らせる。
しかし、駐車場を見た瞬間、佐賀はその見込みの甘さに気づいた。

・・・停めらるっ・・・やろか・・・?

車で一杯の専用駐車場に、嫌な予感が背筋を這う。
何とか空きを見つけて止めたものの、公衆浴場の周りには子どもたちがわいわい騒いでいる姿が見えた。
入り口を入ってみれば、上がり場には靴がわらわらと並んでいる。
にぎやかでいいことだ。が。
「今日は、えらい混んどっね。」
受付のおんばさんにに声を掛けると、ニコニコと返事が返ってきた。
「日曜日はここ最近いつもこぎゃんしとっですよ。」
それでも、今日はいつもより多かですねー、とそう言う。
「芋洗いんごとなっとらんね?」
「なっとっでしょうねえ。今日は上の休憩室も大繁盛しとっですもん。」
靴の量と上の賑わいを勘案しても、浴室はどうにも混んでいるような気がした。
ゆっくりするどころではない。間違いなく洗い場待ちになる。よくある話ではあるが、少し避けたかった。
「・・・ないば、出直すかんた。」
肩をすくめると、おんばさんも苦笑した。
「そぎゃんですか。そいぎ、また来てくださいねえ。」
「ああ、そうすっばい。そいぎまた。」
・・・そんなわけで、結局、公衆浴場をあきらめて外に出る。
しかし、ここまできて温泉に入らないというのもなんだかもったいない。
少し考えて、日帰りが出来る別の一軒を目指してみる事にした。
場所も少し離れてもいることだし、・・・まあ、公衆浴場よりは空いているだろう。そう信じる事にした。


はたして。次に行った高台の宿は、さすがに公衆浴場よりは空いていた。
女将に挨拶して浴場の方へ行くと、数人が内湯で寛いでいる。脱衣所のほうからそれをチラリと見て、佐賀はほっとため息をついた。
・・・今日はここでゆっつらーとすっか。
宿自慢の見晴らしのいい露天の方も今は静かだ。チラリと中を覗けば、今は誰も居ないようだった。

「誰じゃい居んねー?」

一応声を掛ける。返事は返って来ない。これは幸運、と、露天の方へ向かう。幸運な事にやはり誰も居なかった。
さっさとシャワーを掛かれば、露天は独り占めだ。
夏の青い空と山間の町景色を一望し、湯船に足を伸ばしてみる。素晴らしい開放感だった。おまけにお湯は覚えていたよりぬるめではあるし、屋根の日陰に居れば涼しい事ではあるし。極楽である。
岩に頭を預けて寛げば、いつもなら温くてわずらわしい筈の風も、心地よく感じた。ゆっくりと息をしているうちに、自然目蓋も下りてくる。うつらうつらと、夢うつつをさまよう、気持ちのいい時間。

「入っよー!」

それは、女の一声で跡形もなく吹き飛んだ。
「!?」
慌てて目を開け、身体を起こす。と、見知った女の姿が目に飛び込んできた。
「な、あ、・・・ふ、ふふ福岡!?」
「なんね、佐賀おったと!?」
一瞬で記憶を消去し、目をつぶる。しかし、網膜に記憶されたそれはそう簡単には消えてくれない。タオルと腕でで前を心ばかり隠しただけの、あられもない・・・
せめてバスタオルでも巻いていてくれれば、いやそれはこういう日帰りできる温泉では一般的にはあまり考えられない事で。
大混乱の頭を抱え、そちらの方を見ないようにしながら、佐賀はとりあえず男側の岩陰の方に避難した。驚きすぎて何がなんだかわからないが、とりあえず倒れずに避難できたのは、奇跡だ。一息二息つくと、混乱も一ミリくらいは落ち着いた、気がしなくもない。
「っんの、ふうけもんが!!他人が退く前に入ってくる奴があっか、ちゃーがつかち思わんとかっ!!」
岩陰から怒鳴ると、岩の向こう側からふん、と鼻を鳴らす音がした。
「黙っちょるけんわからんかったと。大体アンタがいつまでも露天を占領しとぉけんやん。
 ここが混浴なのは知っとぉとやろ?こっちも待っとぉちゃけん、察してほしか。」
「わが一声かけてから何で待たんとか!返事もできんやっか、手順の飛んどっじゃっ!!」
ここの露天が混浴なのは、無論知っていた。
だからこそやる事もわかっていた。露天に異性が居ないのを確認してから入ること、居る場合は遠慮する事、どうしても退いて貰いたければ一声かけて頼む事。マナーというより一般常識の範囲内だ。
再度怒鳴ったのが効いたのか、福岡の態度が少しだけ軟化した。
「あーはいはい、そげん怒らんでよ、もう。あたしも早く入りたかったとよ。」
福岡が湯に入ったのか、ばちゃん、と水音がする。
その体温がお湯越しに伝わってくるような錯覚を覚えて、血が上ってきた。
水音を立てて勢いよく立ち上がり、ばしゃばしゃと脱衣所のほうに向かう。すると、後ろから声が追いかけてきた。
「折角けん、宿出るとはちょっと待っちゃらんね。一人やろ?」
「・・・そいはそうばってん。福岡も一人か?」
岩陰の端から問うと、そうよー、と声が返って来た。
「暑かったけん、ぬるい温泉あったやんーって思いだしたったい。」
「・・・・・・考えることは皆変わらんちゅー事か・・・。」
あの駐車場の混み具合も、そう考えればとても納得が行った。ここの露天が空いていたのは、混浴だから皆が敬遠していただけ、というわけだ。
「なんね、佐賀もね。」
「ああ。」
くすくすと聞こえる笑い声にため息で答える。
「やっぱり暑さには勝てんよねえ。ここは景色もよかけんちょうど良かったい。」
「確かに、見晴らしはこの辺じゃ一番やろうな。」
いちおう返答はするものの、この場からさっさと立ち去りたかった。落ち着かないなどというものではない。水音がするたびに心臓が跳ね上がる。必死で取り繕っているのもいい加減限界だった。
「そうやろー?」
「ああ。」
なぜだか自慢げな福岡に適当に相槌を打ち、言葉を続ける。
「おいは上がる。一時間くらいなら待っとっちゃっ。」
「そげんゆっくいしとってよかとー?」
「おいも内湯に入りなおすけん、よかっ。」
正しくは頭を冷やす、だ。未だに頭はとても正直に、先ほどの衝撃映像をリフレインさせてくれていた。ひとまずそれを消さねば、まともな考えも何も浮かぶわけがない。
「なら、後で、ロビーで待っとぉね。」
「わかった。」
答えると同時に湯から脱出する。そうして佐賀は、逃げるように露天を後にしたのだった。


数歩で届いた安全地帯・・・脱衣所の扉をばたんと閉める。意地のみで取り繕っていたが、安全地帯と認識した途端に、心臓は早鐘を打ち、頭には血が上ってきた。
ぜえはあと息をついて、心臓を落ち着ける。
何も見なかった何も見なかったと繰り返し、すたすたと内湯に入る・・・と、男たちの笑い声が佐賀を迎えた。
「・・・どがんしたとね?」
怪訝に思って聞くと、さらに笑われる。
「兄ちゃんたちの怒鳴り声、全部聞こえとったぞ。」
別の意味で顔に血が上った。
「せっかくなんじゃし、堂々と入っちょればよかったとけ。」
「そうそう、それで追い出すくらいで丁度よかばい。」
湯船のなかの客のおんじさんたちは、屈託なく笑う。
「でくっわけなかやんか・・・」
温泉のせいだけでなく火照った顔を抑え、洗い場を陣取った。
冷たい水を頭から掛かる。しかし、先ほどの衝撃映像は、肩まで冷えてもさっぱり頭から消えてくれない。人肌ほどのぬる湯だった露天風呂の温度すら、福岡の体温に感じられてしまう体たらくだ。自分の煩悩はここまで強かったのかと、どうにもならないところで気が落ち込む。
「ぎゃーけすっばい?」
湯船の方から声がかかった。
「・・・あ、ああ。そうじゃな。」
答えて水を止め、ぬるい方の湯に入る。露天よりもさらにぬるい湯だが、先ほどまで冷水を浴びていた身体には少し暖かく感じた。
「で。どがんやったと?」
「何がじゃ?」
閉じかけた目を開け、聞き返す。今度は別の客が聞いてきた。
「見たとやろ?」
「何をじゃ。」
「そりゃぁ、露天で喋っとった相手さい。」
興味津々。そんな目線が数対、こちらを見つめる。意味を理解した瞬間、また顔に血が上った。
「・・・そ、そがん、まじまじて見っわけなかろーが!覚えとらんっ!決まっとっ!」
・・・嘘が多量にまじっていた。そのせいか、浴室が一瞬静まり返る。
そして。
爆笑が響いた。
「駄目ばい、兄ちゃん、素直すぎって!」
「初心って奴やろ!若か、若かよ!」
「おいも30年前はそがんやったごたっ気のすっ!」
「違いなか!おいは40年前じゃっ!」
爆笑している相手の誰一人として、実年齢で佐賀に勝てている者は居ない。それに、わかることもある。現実に同じ目にあえば、堂々と居られる人間などほんの一握りなのだ。大抵の人間は「ずうずうしかなー」なんぞと言いながら場所を譲る。決まっている。
それに。
・・・勝つっわけなかやんか、相手は福岡じゃし。
そこまで思い出した瞬間、さきほどの衝撃映像が頭の中を支配した。つ、と何かが零れそうになって、慌てて洗い場に退避する。ばしゃばしゃとシャワーをかかって居る後ろから、大丈夫ねー?と声が掛かるが、返事はできなかった。片手だけで大丈夫だと手を振って、鼻血を止めに掛かる。なんというか、自分の毛細血管は本当に根性なしだ。
格闘する事数分、なんとかおさまった。肩どころか腹の辺まで見事に冷えた身体を、もう一度湯船まで運ぶ。
「大丈夫ね?」
「ああ、大丈夫じゃ。」
簡単に返事をして湯に入る。景色のいい窓の方に寄り、外の景色を眺めていると、大分落ち着いてきた。
ぬるい湯でも、それなりに身体は温まる。それでもぬるいからのぼせる事もない。長く入るのにはちょうどなのだ。
今度こそ邪魔なしでゆっくりぼんやりするのだと気合をいれ、内湯の岩に寄りかかる。
・・・目蓋を閉じ、次に気がついた時には周りの客は入れ替わっていた。

湯から上がる。
何時だろう。そう思いながら手早く身支度を整える。福岡とは一時間後と約束していたが、そもそも約束した時間も不明なので、約束の時間がいつなのかは実はよくわからない。
がしがしと乱暴に髪を拭き、手櫛で適当にまとめて髪をくくる。荷物片手にロビーに出ると、果たして。福岡はすでに上がってきていた。
「遅かー!」
開口一番の文句に、即謝る。
「すまん。」
「五分も待ったとよー!」
ぶーぶーという文句に、眉が寄った。
「そいは待ったうちに入らんぞ。」
「じゃあ50分!」
ぎょっとして福岡の顔を見る。・・・髪が、まだ少し湿り気を帯びていた。五十分はない、と確信する。
「さっきと言いよっ事の違いすぎっじゃ。」
「どっちでんかわらんよ。だって、佐賀が待っててくるぅて普通思うやん。」
私、おまたせーって言うつもりで出てきたとよー?あわてとったけん、髪も半乾きで出てきたとにー。
言っていることは何かが少々ずれている気がしなくもない。
「・・・わるかった。」
しかし、待たせたことに関しては素直に謝るしかなかった。
「で、何の用だったんじゃ?」
聞くと、福岡は明るく答えた。
「せっかく遊ぶなら、相手がおったほうがよかやん。」
「・・・遊ぶ、て、ここでか?温泉しかなかぞ。」
怪訝に思って聞いても、福岡はあっけらかんとしたものである。
「近くに色々あるやん。一緒行こうよ。」
「・・・よか、・・・ばってん・・・。」
なにか福岡の喜ぶようなものがあっただろうかと、考えつつ頷く。と、福岡は威勢良く立ち上がった。
「じゃあ、決まりね!アタシについてきんしゃい!」
引きずられるように宿をあとにする。そして、気がついたら、福岡の車を追っていた。
山を登り、三瀬行きの県道に乗る。このまま福岡に戻るつもりなのだろうか。トンネル代の準備もしなければ・・・などと思っていると、福岡はダム周辺の駐車場に入っていった。なんとか近くに停め、外に出る。涼しい風が頬を撫でた。山の上という事もあり、ここは古湯よりもさらに涼しい。
「ボートいこう、ボート!」
こちらが車から出て来るのを待っていたかのように、福岡は開口一番そう言った。
「・・・よか・・・ばってん・・・。」
引きずられるように桟橋に向かう。福岡のおしゃべりは止まらない。
「一度やってみたかったとよねー。ばってん、一人じゃ行きにくかやん?」
「そりゃそうばってん。」
同意しつつも疑問は消えない。なんでこんな場所まで知っているのか。確かににぎわってはいるが。
・・・と、そこまで考えてふと辺りを見回す。駐車場は、佐賀ナンバーもさることながら、福岡ナンバーが相当数見受けられた。
このあたりは、・・・いや、佐賀だったはずなのだが。
「・・・よく来るとか?」
聞いてみると、あっけらかんと答えが返ってきた。
「三瀬は涼しかけんよく来るとよー。蕎麦美味かし、マッちゃんの豆腐もよか。スイーツも美味しかし、鶏の刺身もよかし。」
思わず絶句する。次々挙げられる名物は、無論佐賀だって知ってはいた。しかし、山の中でのこと、知名度も認知度もないと思っていたのだ。それなのに、これは一体どういうことなのか。
「この北山湖もよかよね!いっそ福岡にならんやろうかー。」
「やらんぞ。多くの犠牲の上に成り立った、大事なうちの水じゃ。」
明るい声での内容に、我に返ってとりあえず釘をさす。福岡は、ごめんごめん、と肩をすくめた。
「でも、よかとこやん。佐賀もそう思うとっちゃろ?」
そう言って福岡が振り返る。一瞬時間が止まった。フォローでもなんでもない、素の笑顔がそこにあったのだ。
「・・・佐賀?」
福岡が首をかしげる。それに、首を振った。
「・・・ありがとうな。」
こんな場所までよく知っていてくれて。古湯も三瀬も地味な場所なのに、遊びに来てくれて。
それに、この佐賀で・・・笑った顔を見せてくれて。
心底嬉しかった。
「?・・・どげんしたと?」
不思議そうに福岡が此方の顔を覗き込む。きっと、礼の意味などわかっていないのだろう。しかし、それでいい。
「なんでんなかっ。」
いっぱいいっぱいの感情を知られたくなくて、頭を振った。
「行くぞ。ボートに乗るとやろ。湖ば案内しちゃっ。」
すたすたと福岡を追い越し、先を歩く。
「え・・・。」
福岡は、少し止まって、それから追いかけてきたようだった。

「うん、わかったばいっ!」





ここまででいい?いいよね?
こないだ古湯の温泉に行ったときの、福岡ナンバーの多さに目が点になったのと。
以前三瀬に行ったとき、福岡ナンバーの(略

調べてみたら、三瀬古湯辺は「佐賀はもとより福岡市民の癒しの場」とか書いてあって、案外佐賀よりも福岡の方が佐賀の事を知ってるんじゃなかろうかとふと思ったんでした。県境付近は特に。
戻る