想去雪

ちらりちらりと白いものが視界に入る。
早々に薄暗くなっていく冬空を見上げると、それはさらに視界に入ってきた。

雪だ。

「道理で冷えるわけや。」
うぅ寒、と、播磨は身を震わせる。
ここは京都。
本日開催の近畿の会議が一段落つき、ようやく会議場から出たところだった。
普段は神戸に一切任せているが、自分の家の件も議題になるとの事で久々に参加していたのだ。
その神戸はといえば、京都や大阪とまだまだ話し合う事があるらしく会議室に居残っていた。時間もかかりそうではあるし、そちらは待たずに帰ることになっている。
「ほんま、寒ぅなったなぁ。」
傍らで、やれやれと女の声がした。
「交通止まるって事はあらへんやろけど、今夜は冷え込むで。」
コートにマフラーで同じように空を仰いでいるのは滋賀である。
「やろなあ。……滋賀、傘いるけ?」
「あら、気が利くやないの。けど、これくらいなら傘はいらへんで。」
「まあ、それもそうやな。」
駅までは同じ道だ。なんとなく並んで歩き出すと、滋賀が小さく笑い出した。
「アンタもそんな気ぃ利くようになったんやなあ。変わるもんや。」
無骨一辺倒だったくせに、というのは心底わかるので、精々肩をすくめておく。
「今は、傘持ち歩かな落ち着かへん奴も、雪でも濡れるって言って大騒ぎする奴も同居しとるからなあ。」
「あはははは、なるほどなあ。」
滋賀もすぐに想像がついたようだった。
それっきり、会話は雪に吸われてしまう。
「こうやって歩くのも久々やな。」
薄暗い空の下、ふっとついた息は白く凍った。
「せやな。今となっては珍しい取り合わせかもしれへん。」
滋賀も同じように白く息を凍らせる。
「昔はそこそこあってた気ぃするけどなあ。」
「ある意味ご同輩やったしな。」
同輩、の言葉がなんだか可笑しかった。
何の同輩かと言えば、あえていうなら領主の格だろうか。お互い要衝地だったため、領主は代々そこそこエラい人がやっていた。殿様のお供で会うことも少なくなく、その関係で二人の間には妙な近さがあったのだ。
「昔の話、やけどな。」
「せやなあ。」
そう、昔の話だ。
こんな風に歩いたり話したりする機会は、播磨が兵庫の一員になってからというもの激減していた。
ただ、記憶は消えない。
すっと思い出せたのは薄暗くて薄明るい雪の日の景色だった。かつて、同じような日、この京都を二人で歩いていたのだ。
……それは、もう何百年も前のこと。


あの日もちらちらと雪が舞っていた。
「あぁ、雪かあ。道理で寒いわけや。」
薄暗い空を見上げて、近江が身を震わせる。
「ほんま寒ぅなったなぁ。宿まで戻るのもしんどそうや。」
手に息を吹きかけ、播磨も空を仰いだ。
「しっかし近江、毎度毎度お供も大変やな。」
「仕方あらへん。うちは要衝やもの。
 それに播磨かて、畿外やのにいっつもお供してきてしんどいんとちゃう?」
「それこそ仕方あらへんで。俺んとこも要衝や。おまけにお前んとこより前線やで。あの馬鹿でっかいお城は何のためやと思っとる。」
肩をすくめる近江に肩をすくめ返して、そして二人で笑った。
「せやな、いざという時は守ってや。」
「よお言うわ、全く。」
舞う雪の数は、少しずつ増えていく。手を差し出せば、雪はその上に舞い落ちて、淡く融けていった。
「寒いけど、雪降ってると思えば悪ぅないなあ。」
その様子がなんとなく新鮮で、視線は雪と手の触れるところに行く。
「そうなん?」
近江も同じように手を差し出した。
「ああ。俺んとこ、雪少ないからちょっと珍しい。」
言うと、ああ、と頷く。
「なるほどなあ。うちはそこそこ降るから、その感覚はちっと不思議や。」
「そうなんか。」
白い雪は、近江の白い手の上に舞い降り、すぐに融け去っていく。そしてまた舞い降りてまた融けさる、繰り返し。
その様子は静謐で、妙に艶かしかった。上等の絵のような光景に、息も止まる。
見惚れていたのはどのくらいだっただろうか。はっと我に返り、一つ息をついた。
「俺は雪は好きやで。」
言葉と共に、中空に差し出された白い手に自分の手を重ねる。冷えた手の感触と共に、近江の注意がこちらを向いたのがわかった。
それを確認し、精一杯、余裕と出来心と冗談を装って、言葉を舌に乗せる。
「どうや、近江。……雪みたく融けてみるか?」
そして、色街の女でも誘うように、にやりと笑ってみせた。
隠し通すべきは、本音だ。どこか、温度のある好意にも似た何かの存在。
いつもお上の補佐みたいな顔をしている近江は……要衝中の要衝の地で、手堅く仕事をこなし人を育てている近江は、同輩の自分から見ればある種尊敬の的だった。それが憧れに変わったのはいつだったか。想いの色は手に入れたいという欲にすらならない程度に淡く薄いが、それでも存在を主張しつづけている。
近江は重なった手をまじまじを見て、それからこちらを見て、……そして、ふふ、と微笑んだ。
「……いいや、御免しとくわ。」
近江の手がすうっと離れていく。……けれどもそれは予想の範囲内、いや、予定調和の行動だった。
「そうか。そりゃ残念や。」
自分も予定調和の笑みで肩をすくめる。

……それでおしまいだった。
何があったわけでもない。だから、その後も同輩のままだった。殿様のお供で会って、少し話をして、笑いあう。以前と何ら変わらない。
ただ、こんな誘い方をしたのは、後にも先にもこれっきりだった。


「いつか、播磨に口説かれた記憶があるんやけど。」
「っ!」
記憶の旅は、滋賀の一言で現実と酸味のある想い出に引っ張り戻される。
「……こんな雪の日やったよね。」
「そんなん」
慌てた否定はすぐさえぎられた。
「忘れたとか言わせへんで、顔に出てるやん。」
呆れたような微笑みに、やっぱり敵わないと額を押さえる。
「ああ、せや、そんな事もあったわ。……まったく、よお覚えとるなあ。」
「自分もなあ。普通、そんなん言うた方は綺麗さっぱり忘れてるもんやで。」
間髪要れずに突っ込みが入って肩をすくめる。本当に、昔っからこいつに敵った試しは無い。
「あーはいはい、どうせ未練がましいです、って。
 けどなあ、滋賀の方かてあんなん戯言の範囲内やん、別に俺やなくてもぎょうさん聞かされてるやろ。なんでよりによって覚えてるんや。」
恥かしいから勘弁してくれ、と言外に出しても、滋賀にその気はないらしい。
「そりゃあ」
さらっと笑おうとした言葉が、言葉を捜すように一瞬止まった。
「……あんな言うなんて珍しいなって思ったもの。」
軽く笑って続けて見せても、誤魔化しおおせていない事が解る出来だ。
「誤魔化せてへんで。そっちのが珍しないか?」
言うと、滋賀はむっと口を尖らせた。
「やかましわ。つまらんとこつっつかんでくれへん?」
しかし、珍しくボロが出たのを逃すのは勿体無い。
「どうせ何百年も前の話、時効やん。誤魔化す事もあらへんと思うけどな。
 それとも何や、未来永劫黙っとくつもりかえ?」
ほれ、何を考えてたか言うてみ、と言ってみる。しかし滋賀は、ふふ、と笑っただけだった。
「せやな、未来永劫黙っとかなあかん事なんてようけあるで、一つ二つ増えてもかわらへん。」
くすくす笑いながら、手袋の手を空に翳す。
その仕草はやんわりとした拒絶を示していた。
「せやな、お前ってそんな奴やったわ。」
これはもう、胸のうちの一分ほども聞く事は敵わないに違いない。
嘆息して、……ふと翳された手に自分の手を重ねてみる。
滋賀は二つ重なった手をまじまじと眺めた。……あの時と同じように。
「雪みたく、って言うてたっけね。懐かしいわ。」
ややあって、くすりと笑う。
「今でも同じ事、言える?」
「……勘弁してや。」
あれは、同輩だからこそ出来た事だった。県にすらなれなかった今の自分には、例え想いがあったとしても叶わない……遠い言葉だ。
「そう。」
降りて来た雪が重なった手に落ち、ゆるりと融けた。
「まあ、……そうやろね。」
その一瞬だけ、滋賀の微笑みも少し遠く、寂しげに映る。
「……割と本気やったんやけどな。」
ひらりと舞い落ちる雪片よりも静かに、その言葉は口をついて出てきた。
「……うん、知ってた。」
言葉は淡雪のように消えていく。
……そこそこ、嬉しかったんやで。
聞えるか聞えないかの余韻と共に。
そして、重なった手は、また二つに分かたれた。
「まあ昔のことやな。」
そう言ってこちらを振り向く。目に入った滋賀の表情は、苦笑い交じりながらもあっけらかんとしていた。
「せやな、時効や時効。」
だから自分も同じように笑ってみせる。
わかっていた。これ以上掘り返せば、甘酸っぱい思い出に苦味が出てきてしまうだけなのだ。
今となってはお互いもう過ぎ去った事。
惹かれたからこそ手を伸ばせなかった。自分たちはどこまでもその土地であり、どのような気持ちを抱いても、結局は土地の利のために動いているのだろうから。そして、相手に何があろうとも、最終的には土地の利の為に動いてしまうだろうから。
……それが自分達の真実だ。
「けど勿体無かったなあ。あんとき、強引に迫っといたらもっと違ってたんかなあとか思うやんか。」
おどけたように、やれやれと伸びをする。
「もし強引に迫られてたとして?どうなってたかー……なんてうちにもわからへんで。」
滋賀もひょいっと肩をすくめた。けれど、表情はすぐに緩む。
「まあ、今は今でまあええの。」
そう言って微笑む顔は雪花のようだった。
「そっか。……せやな。」
自分もその意見に否はない。ふうっと滋賀に向き直る。
「今度、遊びに来いや。歓迎するで。」
あの馬鹿でっかいお城とか、お前んとこ今でも好きな奴らのとことか連れてくから。
そう言うと、滋賀もせやねと笑った。
「うん。うちの自慢のお城も見に来ぃや。」
かわいい猫もおるで?の言葉に思わず笑いが漏れる。
「ああ、そうさせてもらお。」
確かに逢うことは少なくなった。けれど、ゆるやかなこの関係も、悪くない。
二人で歩く、雪の舞う道。
雪雲で薄暗かった街は、そろそろ灯りで賑やかになり始めていた。


『雪みたく、融けてみるか?』
『……せやな。』
もしも、は永久に融けて消える。


時代劇見てたときに、「雪みたく融けてみるか」なんてやり取りがあってきゅんとしたので誰かに適用してみよう!……と思ったらまさかの組み合わせに適用されてしまいました。
以前友好都市とかなんとか調べてた時、なんとか男女関係があったのがここだったんです。なんか、近江出身の播磨の殿様が凄いいい人だったらしく、その縁で友好都市なんだとか。以来、実はそこそこ付き合いとかあったらいいなと思っていたりしてですね。つまり色々完全に捏造なんですけど。
譜代同士だし、お城コンビとでもいうのかなあ。播磨さんはなんだかんだ色々経験してる気がするのですが、もしも恋があったとしたら、滋賀さんは第一候補な気がします。地味に立ち位置似てるし。
戻る