部屋の前で、神戸は静かに深呼吸した。息を整えて、扉をたたく。
「播磨?おる?」
「ああ、なんや?」
ごそごそ、と動く音がして、部屋の主が扉を開けた。
「これ余ったから、食べ。」
努めて無造作に。
差し出したのは、チョコレートのクズをまとめた固まりだった。
大きめの飴玉くらいのサイズのそれは、一応味見皿の上に載っていて、一応ハートの形を成している。色も抹茶の緑、ホワイトチョコの白、各種チョコレートの茶色で構成されていた。口元まで持っていけば、ほのかにオレンジの香りもするはずだ。
「おう。」
大差ない無造作加減で播磨はそれを受け取った。
口に入れた播磨は旨いともマズいとも言わない。だが、一瞬目を見開いたのち、表情が少し緩んでいた。反応は悪くないらしい。
……当然だ。混ぜた時のバランスだって、考えて余らせて、考えて作ったのだから。無論言いはしないが。
「片付いてよかったわ。あ、もちろんこれの分のお返しはもらうで?」
「チョコレートの余りクズ押し付けといてそれかいな。」
嫌そうな顔にふふんと笑ってみせる。
「当たり前や。バレンタインのチョコレートは高いんやで。」
「まだ13日やんけ。」
「変わらへん。」
味見用の小皿を取り返し、期待してるで、と踵を返す。図々しいにも程があるわ、という後ろからの文句はもちろん聞き流した。
そのまましれっと廊下を曲がって、台所に行きついて、誰もいないのを確認して息をつく。
余り物の処理を押し付けた、それだけなのだが、それは誰にチョコレートを渡す時よりも緊張した。
もちろん本体は、周りに配る分、神奈川に渡す分、家族に渡す分としっかり作って冷蔵庫に入れてある。先程渡したのは本当に余りだ。そして、それが今の自分にできる精一杯だった。
数年前、初めて家族の分とは別に一つだけ、……余りものを渡した。それ以来、チョコを作った日には、味見とか反応を前もって見たいとか余りクズが勿体ないからとか、自分の中でそんな理由をこじつけて、小さなチョコを播磨に渡している。
味見皿の上に載っていて、ラッピングもしていなければ整形もまともにしていないのだが、家族の分とは別に一つだけ、自分の気持ちを隠せるように、家族を壊さないように、さり気なく雑に渡す本命のチョコだった。結構気は使うし緊張する。だが、ここ数年はなんとかそれを成し遂げていた。
本当は気づいてほしい。それに応えてほしいとも、心のどこかでは思っている。
だけど、それが家族を壊すことにつながるのなら。自分はそれを望まないし、きっと播磨もそれは望まないだろう。だから、日付のズレた雑な特別、これが精いっぱいだった。
息をつけば、時刻はそろそろ夕方近い。丹波が夕飯の準備に取り掛かる前に、と散らかった菓子作りの道具を洗って片づけていく。
「ただいまー。神戸、そろそろ台所空けてや。」
がたがたと片づけているうちに、玄関の方から丹波の声が聞こえてくる。
はあい、と返事をして、神戸は最後のボールを棚に入れた。
一月後、三月十四日。
例年のごとく神奈川とディナーとしゃれこみ、美味しいワインと美味しい料理でオシャレに過ごして別れると、そろそろ日付も変わるところだった。
先方はここ数年、大概の事は余裕の態度で聞いてくれる。元々社交的で話し上手で聞き上手だ。小さな愚痴も他愛ない感想も受け止めてくれて、それでついつい話し込んでしまうのが常だった。
まさに理想の王子様だ。たまに見せる子供っぽい所も、以前のように駄々をこねているような感じは薄まって、正直大人びたと思う。
神奈川をそこまで変えた相手が誰なのかは未だに聞かせてもらえていないのだが、あまり踏み込むのもマナー違反だろうと思って追及はしていなかった。それに、相手が誰であっても羨ましいには変わりない。
あの幸せいっぱいの余裕の表情。自分にそんな顔ができるのはいつになるやら、もしかしなくても永遠に来ない可能性だって高い。
はー、とため息をついて家路につく。
兵庫の家は明かりも消えて、すっかり静まり返っていた。
「ただいまー」
小声をかけて、戸に手を掛ける。思った通りに鍵がかかっていたので、バッグからひっぱりだした鍵で中に入った。
暗い中も勝手知ったる我が家だ。そのまま居間に入ると、ふわっと酒の匂いが漂ってきた。どうやら外出している間、家人たちは家で飲んでいたらしい。
これは散らかっているかな、と思いながらひとまず明かりに手を伸ばす。明るくなった室内に見えたのは、いつも通りのこたつと酒瓶。そしてぐったりとこたつに突っ伏す播磨だった。
「……う……ん……」
明るさに気づいたかもぞもぞと播磨が身じろぎをする。
「ただいま。何やっとおの。」
「うー……神戸か?」
ぼんやりとした視線は、こちらを見たような見ないようなうちにまた突っ伏してしまった。
傍によると、案の定酒の匂いがする。見ての通り酔いつぶれていたらしい。
「うん。
……もう、なんでこんななるまで飲んだの。」
バッグをおいてこたつの様子を調べると、こたつもつきっぱなしだ。
「……但馬が、蔵開きやった言うて新酒持ってきたけえ、開けようかってなって」
その言葉に、ちらとテーブルに目をやれば、置いてあった瓶は確かに但馬の所のお酒だった。無論綺麗に空になっている。
「うち仲間外れにして酒盛りしとったん?」
ようよう顔を上げた播磨は、ふわあと伸びをする。
「季節もんは飲まんと勿体ないし。」
「うち仲間外れにして?」
「今年はうちの蔵開きも顔出したいなあ。」
聞こえないふりにジトリと名前を呼ぶ。
「播磨。」
流石にとぼけられないと悟ったか、播磨がため息をついた。
「お前、今日はどうせええもん食べてきたんじゃろ。」
ぐでっと頬杖をついてそういう。
「そりゃあ、神奈川は播磨と違ってチョコレート分は返してくれる人やもの。」
「……俺らも返したやんけ。」
無論、本日出かける前に兄「たち」からはしっかり返してもらっていた。今年はシンプルな銀の鎖のネックレスで、現在自分の首に掛かっている。
しかし、播磨から返してもらわなければならないのはそちらではない。
「あんたにだけやった分がまだや。ほら、13日の時の。」
「…………そんなこまごましたこと知らんわ。
……あー、台所に御座候があったけえ、それでええか。」
義理は果たした、と納得したような声。
「……御座候……」
口の中で呟いてみる。しかし、缶入りのドロップ一粒のほうがまだしもホワイトデー感がある気がしてならない。
確かに、渡したのは一口分ほどの余りものだったので期待はしていなかった。が、御座候。色気も素っ気もムードもかけらほどもありはしない。……それはまあ、美味しいのは認めるが。
はあ、とため息をついて隣を眺める。あいつら起こしてくれればよかったんやけどなあ、とぶちぶち言いながらあくびをしている播磨にはかっこよさなどひとかけらも存在しない。
理想の王子様みたいな相手との絵に描いたようなオシャレなディナー、キラキラしたイベントからの落差に、ここまでくるとなんだか笑ってしまいそうだった。ホワイトデーのお返しは御座候で、相手は酔いつぶれてこの様で、格好が悪いにも程がある。
「さて、寝るかあ。」
ふわぁあと伸びをすると、播磨はこたつから抜け出した。
「お前もさっさと寝え」
そう言いながら、ぱちんとこたつの電源を落とし、そのままのっそりと立ち上がる。そして首を伸ばすように左右に動かしながら、……ふらりとよろけた。
「ああもう、危ないなあ。」
ほら、と支える。
「あー、悪い。」
播磨は神戸に掴まって体勢を立て直した。少しの重さとお酒の匂いが肩口に掛る。
「しっかりしてや、もう。どんだけ飲んだの。」
「そんなに飲んでへんで。でも今日は酒がよお回ってな……。」
あと眠い。頭を少し抑えながらそう言う。様子を見るに、寝起きでいるのも相まって足元がおぼついていないらしい。
「……ええわ、部屋まで一緒に行こ。」
「いらんわ。」
差し出した手はあっさり押し返された。
「親切で言うてやっとうのに。」
流石に少しむくれて言うと、播磨は面倒そうな顔をした。
「へいへい、ありがとさん。」
頭にぽんと掌が載る。予想外の感触に身体が固まった。その手のひらは、固まった神戸にお構いなしで子どもを撫でるような雑さで頭をわさわさと撫でると、何事もなかったかのように離れて行く。
「ほな、おやすみ。」
ぽかんとしているうちに、播磨は少し頼りないながらも確かな足取りで部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと残されて一秒。顔が一気に赤くなったのが分かる。
撫でられる事自体は、それなりにあった。普段なら噛みついて見せるが、それ自体はないではない、し、……嫌いでも、ない。
でも、毎度調子は狂ってしまう。
厚い掌は相変わらず暖かくて、今日は少しお酒の匂いがしていた。それにいつか恋を自覚した時と同じように、なんだかんだで優しかったのだ。
夜中とはいえ、風呂にも入らず寝るような教育は受けていない。
軽くシャワーを浴びると、ふわふわ気分もずいぶん落ち着いた。いつも通りに軽く肌を整えて、いつも通り水を飲もうとそのまま台所に足を向ける。
コップを引っ張り出して、水を入れて。口を付けたところで、ふとテーブルの上に目が行った。
見覚えのある袋がおいてある。そう言えば播磨が御座候が台所にあったと言っていたのを思い出す。もしかしなくてもこれだろう。五個くらい入りそうなサイズの袋、ということは皆で食べていたに違いない。
袋を一応開けてみると、中には案の定御座候が入っていた。
それと一緒に、別のものも目に入る。
「……もう。」
それを摘み上げると、思わず頬が緩んだ。
ころんと一緒に入っていたのは、比較的可愛らしい包装のキャンディだった。
どんな顔をして買ってきたのか、どんな顔をして中に入れたのか、想像するとなんだか可笑しい。それに、ちゃんと覚えていてくれたのが素直に嬉しかった。面と向かっては面倒だからとか言うだろうし、さっきは細かいことは忘れたなんて言っていたというのに。
きっと今、自分の顔は思いっきりにやけているだろう。
キャンディだけは手の中に入れて、御座候はラップで包んで冷凍庫に入れて。部屋への足取りは雲の上に居るような軽さだった。
恋する心は複雑で、それでいてとても単純だ。
溜息をついて帰ってきたのに、こんな簡単なことで幸せになれるのだから。
と書いてありました。個人的にリンリンシグナルめっちゃ播神だと思ってます。思い出すだけでスイッチ入りそうな勢いでそれっぽい。